#03 秋夫と映画

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#03 秋夫と映画

 「昨日俺が言ったこと、忘れてねぇよな」  僕の部屋から“初出勤”する秋夫に鋭い眼差しで念を押された。蛇に睨まれた蛙よろしく、僕は重い瞼とぼぅっとした頭で頷く。  昨夜、秋夫が立てた音は凄まじいものだった。いびきに歯軋りに、物騒な寝言。僕がウツウツしだすと決まってガタン、バタン、と手足が床を叩く。そのたびに僕は縮み上がって布団の中で身体を硬直させた。あんなに夜が怖かったのは生まれて初めてだ。 いつのまにか家の鍵は秋夫の手に渡っていたし、もうどうとでもなれ、という心境になっていた。とにかく今は眠くて耐えられない。    +  うみ色のカーテンの向こうに夕焼けが広がった頃、僕はベッドからのろりと起きた。目を擦って立ち上がると、秋夫はすでに部屋に居た。  寝起きの頭が一気に覚醒した。 「起きたか」  まるで昔からここにいるみたいなリラックスした態度で、秋夫は僕の指定席に座っていた。 「ずいぶん気持ちよさそうに寝てたな。昨日、眠れなかったのか」  しれっと言う秋夫に、二の句が継げない。 「……なに、してるの?」  秋夫はテーブルの上になにやら紙を広げていた。 「履歴書。忘れたふりしてたら渡された。失敗してもいいようにって、二枚も」  秋夫はうんざりして言った。  僕は遠慮気味に中身を覗き込んだ。  ――鈴木秋夫(すずきあきお)  名前の欄を唇の中で読んでから、今の今まで秋夫の名前を知らなかったことに気付いた。 「うそだ、僕より三つも下なの?!」  年齢の欄に視線を動かしたらおもわず声が出てしまった。そして次の欄も。 「ちょっと! 住所って“ここ”じゃないか! あっ、携帯の番号も僕の! いつの間に」 「かたいこと言うなよ」  秋夫に悪びれる様子はない。 「そうだ、洵の行った高校の名前教えろよ」  しかも学歴詐称までする気だ。 「そんなの、バレるよ」 「バレねぇって」 「地元だから無理だよ」 「どこだよ?」 「柳高、知ってる?」  一応、有名進学校だ。県内に住む人間ならたいがい知っているはずだが、秋夫は少し考えてから、知らねぇな、と言った。 「じゃあ小、中、教えろよ」 「……」  断るのも面倒になって棒読みで伝えた。秋夫のペンが動く。 「資格ってなに書けばいいんだ」  右側にペンを移して秋夫がひとりごちた。僕は、運転免許とか? と答えた。 「二輪はある」 「じゃあそれを書いたらいいよ」 「次は、希望? 条件? 特技?」  秋夫につられて僕も履歴書に顔を近づけた。考えてみれば、僕は履歴書を書いたことがなかった。 「なんでも書いていいのか」 「とりあえず自己アピールとか書いておけばいいんじゃないかな」 「アピールって」  秋夫は僕の言葉にほんの数秒だけど、困った顔をした。その直後、思い出したように袋ごと突き出した。僕は受け取って中を開けた。
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