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#00 プロローグ
夏の終わりが、すぐそこまできていた。
ここ数日、気温は22℃を行ったりた来たりしている。あのうだるような暑さはどこへ行ってしまったのだろうか、僕の部屋では新品のエアコンが出番を待っているのに。そう。僕はエアコンを買った。あまりの暑さに音をあげて、入ったばかりの給料で一番安い特価品を手に入れた。だけど取り付け工事を一ヶ月近く待ったから実際に僕の部屋にエアコンがきたのは一昨日、八月が終わる最後の日曜日だった。
「つーか、涼しすぎ」
肩を並べて歩く屋代がシャツからごろりと出た二の腕を擦った。見上げる空はどこかたよりなさそうで雲も低い。だから雨が降るのかもしれない。
「こんなの夏っぽくないよね」
屋代につられて僕も腕を摩った。
「だよな。もっとこう、ジリッとしなきゃな」
「ほんと、ほんと」
あんなにうんざりしていた真夏を恋しがるなんて馬鹿げている。第一、先週と同じこの道を僕たちはさんざん文句をつけて歩いたのだ。暑くてやる気がでないとか、夏なんて嫌いだとか、犯罪が多いのは夏のせいだとか、かんかんと照りつける夏の陽射しを目の敵にして恨み節をきかせていた。なのに夏が背中を向けた途端、南東のぬるい風を懐かしみ灼熱の太陽を恋しがる。勝手だよな、人間って。
「ところでさ、試験勉強の方はどうだ」
屋代が静かに話題を変えた。
僕たちは昼食の弁当が入ったビニール袋を手に、『大井自動車学校』へ戻っている。
「まあまあ、かな」
ここで働き始めて二ヶ月になる。入校生を獲得するためにあちこち出向いては、ぜひうちの教習所に通ってください、よろしくお願いします、と頭を下げる仕事だ。営業はなかなか大変だ。だからというわけではないけれど、僕はインストラクターを目指して勉強を始めた。合格すれば晴れて屋代と同じ“教習所の先生”になれる。
「“紙とペンと机”――か」
屋代が呟くそれに、僕は口元を揺らしたまま俯く。
突然の“ふるえ”で大学進学をリタイアしたあの日のことは、遠い出来事として処理してきた。あまりに惨めで情けない記憶は封じ込めてしまえ、とばかりに無意識下で抑制が起きたのだと思う。今もすべてを思い出すことが困難だ。
六年前のセンター試験当日のことだった。
開始合図と共にペンを持った瞬間、それは来た。最初は緊張のせいだろうと思った。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせ、余裕を取り戻すために上から順に問題を流し読みした。知っている問題ばかりが並んでいる。これも、これも、――これも。―――いける!
僕は興奮していた。学びの集大成がここにある。苦しかった受験勉強がこれで報われる。あとは答案用紙に正しい答えを書くだけのことだ。冷静に、ゆっくり、落ち着いて。なのに僕は紙の上に自分の名前すら書くことが出来なかった。ふるえは試験の間、止まらなかった。冷や汗はやがて脂汗に変わり、時間は歪んだ。試験監督に断り朦朧としながら会場を出た。するとふるえは止まった。けれど再び机に戻ると同じことが起きた。絶望しかなかった。
病院で血液や脳波や、ありとあらゆる検査をした。その結果僕には本態性振戦という病名と“試験恐怖症”という便宜上の別称が付いた。原因は不明でこれといった治療法もない。日常生活に支障を来す場合には交感神経系の緊張を薬で抑えることもあるが、基本は焦らず、リラックスして過ごすようにと言われた。要するにストレスを感じないように暮らせということだった。まだ十代の僕に、のんびり生きろと。
「応援してるからな」
「ありがとう」
自分のことを気にかけてくれる人間がいるのは幸せなことだ。最近はそう思うようになった。
「車の免許を取れたことは奇跡だった。屋代のおかげだよ。この方法があって良かった」
「俺は別になにもしてないって。島田が頑張ったんだって」
僕が『大井自動車学校』へ通い始めたのは去年の秋だった。奇妙なふるえのせいで社員全員に顔と名前を覚えられることになった。僕に同情した屋代の口添えもあり、自分の身の上を所長に説明する機会が与えられた。医師の診断書にも『机が整然と並んだ空間、紙、ペン』の三要素が揃わない限り日常生活に支障はない旨が記されている。その結果、前例はなかったけれど僕の試験は“口頭”になった。本試験も教習所の所長の計らいで同じ方式が取られた。所長は元警察官僚で免許センターには顔が利く。
「なんにしてさ、島田は運転もうまいし人に教える素質もある。合ってると思うぜ、この仕事」
「ありがとう」
屋代との共通点は同じ年という以外残念ながら、ない。カラオケとパチスロが好きな屋代と、映画鑑賞が趣味の僕とでは合わせる話題がない。けれど優しいヤツだ。出会った頃からそこは一貫している。僕は屋代の優しさを救いだと思っている。屋代といると、少しずつ立ち直れる気がしている。
「鈴木くん、だっけ。どうしてるだろうな」
僕が黙ったせいで、屋代にまた気を使わせてしまったのかもしれない。
「そうだなあ」
空を仰いでから、なにもかも全部ふっきったよって顔で、あいつの残像から気を逸らして答えた。
「どこかで元気にやってるんじゃないかなあ」
僕の表情はきっと穏やかなはずだ。
ぷっつりと連絡を絶った秋夫の行方はただ僕が知らないだけで、この先も知らないだけで、きっとどこかで飄々と暮らしていくはずだと思うから。だから僕は心配なんかしていない。というか、しないことに決めたんだ。
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