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 こうした時にその人本来の人間性というものを見るのだろう。どれだけ相手に誠実に、どれだけ多くに目を配り、どれだけ真摯に振る舞って来たのかを。まさにその手本のように店は埋まった。これまで見た誕生日祝いやどこかの忘年会から流れた二次会の場でもこうも多くの人間で店が埋まることはなかった。  この日、長く務めた店が閉まる。それは店主のママの新たな旅路、最後の最後に労いとそのお祝いに大勢の客が深夜うら過ぎて朝まで賑わった。  店を閉めると決めた当初は泣かないと言い張っていたママは既に五日前から涙脆く、開店前には寸前まで泣き、寸前までメイクを直していた。そこからはもう、気にしていられる程にもなく、終始涙を浮かべていた。  ママが店を閉めると決めたのは半年前のことだった。その半年間、新地の手続きを済ませ、新しい土地の生活を万全にしてからの閉店となった。この土地に残すものはなく、新しい土地には全てある。けして引き返したり、後悔はしないという決心の表れだった。  気づけば六年もの間この店で働き、六年もの間、何不自由もなく雇い続けてくれた。最初に会ったのは二十歳になる数週間前、けしてまともとは言い難かったこんな身の自分を「うちで」と雇ってくれた。それまでの大人の印象を大きく覆して、対人間として、誰より真摯に向き合ってくれた。感謝してもし尽くせない。よく「あの時会っていなければ今がどうなっていたか」と冗談めいて話すものが、自分にとってはなにより真実で、あの時この大人に会っていなければ、きっと自分はまともな音なにもなれずにどこかで危ないことをして生きてすらもいなかったかもしれない。  感謝してもし尽くせない。新たな土地でまで自分を雇い続けたいと言ってくれた時には、流石に、大人になってから初めて涙を流しそうになった。  今日店が閉まり、新しい土地で新たな店が始まり、そこでまた、ママの元で働くまで二週間、この土地を離れるまで十日となった。  帰宅する頃には冬間近の空も明るみ、店を出る間際に見た時計は五時半を回っていた。  吐く息も随分と白く、はっきりと見えるようになって来た。騒々しい街もこの時間には息をひそめるように静まった。アパートへと戻るこの道も、後数回。引き払う前に店の大掃除をして、それが終わればもう、通ることもない。今後働く新しい土地での新しい店は夜の店ではなく『食事処』、ましてこんな時間、今後出歩くことも少なくなるのかもしれない。  今ではどれも懐かしい。それもこれも、まともな方向へと導いてくれたママの存在があったおかげだった。  店からほんの十二分程で辿り着くアパートは古く、夜の街で金がないか、夜の街で金を使ってなくしたか、そのどちらかの人間しか住んでいないような場所だった。住む場所にはこだわらないという自分には申し分ないが、好き好んでこんな場所に暮らして生きるような人間はいないような気もしていた。  古びた階段は進む度に大きく軋む。その音よりも大きな怒鳴り声が、進む度に強まる。どの時間でも変わりはなく、声の主の気分でいつでも聞こえる声だった。隣人は今日も、自分の息子か、自分の金の為に連れているかの少年に怒鳴っている。あまりにも稚拙で、あまりにもしょうもない言葉で、殴っている。  玄関の前で一際大きくなった声はその扉を潜って自宅に入ってもさほど変わりはない。薄い壁一枚隔てただけでは遮れきれない声はきっとアパート中に響いているが、どこの誰も気にすることもない。どの部屋の住人も酷く疲れているか、きっとこちらの世界にはいない。怒鳴りつける男と変わらないだけ、まともな人間はいやしない。  必要なもの以外は本当にない。好き好んでそうしているわけではないが、ずっと、いつからと正しく数えられないだけ長く今日を生きるのにやっとの生き方をしていた。二十一から二十三までは自業自得、二十一から引いて六年は、まともな世界に生まれなかった所為。  今夜をどう生きようという焦燥を初めて味わったのは十五の春だった。中学を卒業して二日後、家を出た。ただ家の形を成しているだけの、建物から。  気が付けば父親の存在は日々、いつの間にか溜まっていった灰皿の吸い殻だけで確認していた。母親は、多分いた。どれかはわからないが、いつかの、どの瞬間かには同じ建物の中にいたはずだった。  何故自分がこんな世界に生まれたのか、その理由を知る前に「知ったところで」と思えた自分は余程救いがあったように思える。きっとそこでなにかを望めば、今こんなにも晴れやかに断ち切れてもいないのだろう。そんな奴を大勢見た。噎せ返る程切り離せない自分の根幹に苦しめられて潰れていく同じ生き物を。命だけは与えられ、他にはなにも与えられはしなかった人間を。  自分が恵まれていたのは、そのしがらみがなく、関わる大人にまともな人間がいたからだということは自負があった。見る目があったわけではないのだろう、潰れていった奴等となんら変わりはない。紙一重の部分でそうはならなかった、それだけだった。 「これまでは明日起きたらどうしようと思っていたけど、今は、今日の夜をどうしたら生きられるかがわからない」  初めて金を求めて向かった店でそう言うと、店主はその日の夜から雇ってくれた。潰れていった奴等とはなにが違ったのかわからない。きっと、もっと底辺にいた人間も多かった。たまたま救われた、たまたま、そうはならなかった。  十五で家を出てから多くの店で働かせてもらいその日を生きた。その全てが夜の店だったが、思っていたよりも温かな場所だった。それはその大人達の忠告もあったからかもしれない、「そこから先には行くな」という、物理的な境界線と、心の境界線があった。  度々大人達から言われたことがある。「アレとは関わるな」と、実際に彼等が溜まる場所やその特徴を教えられた。彼等は大体が自分よりも若く、自分よりも早くここにいて、長くいた。きっと同じだけまともな世界には生まれていない。  数年前、その中の一人が死んだのを聞いた。兄弟で悪さをして、一番治安の悪い場所にいて一番治安の悪い集まりの中にいた。  仕事にも使う棲み処のラブホテルで、その兄の方が死んだ。当初は弟が兄を殺したのだと噂が立ったが、けしてそうは思えない程に仲が良かったのを知っている。暫くして兄が仕事中に受けた暴力の所為で死んだと知って、やっぱりか、と思った。  兄は弟の為ならばなんでもやると言っているのも聞いていた。あの兄弟は互いに互いへ依存しなければならない程、世界が狭く、深かった。彼等もきっと、自分と同じように生まれた世界が既に自分の味方ではなかった。最も近く、最も悪意を持って立ち塞がった挙句その先さえも奪われて。  隣人の怒鳴り声が一際大きくなって、最早聞き慣れた言葉と同時になにかが壁に当たった。じくじくと、精神が蝕まれていくような気分になる。隣人には時間も場所も関係がない。その時間も場所も自分だけのものだと思って、少年の人生を奪っている。  眠れるわけもなく、気づけば煙草の箱を持って窓の前に立っていた。そこで禁煙を決めたことを思い出して、けれど窓を開け放った。外と変わらないのは空気の籠り具合くらい、気温を気にする程でもない。  吸うか、吸わないか。箱から一本取り出してみるとそれも含めて五本しか残っていなかった。この先はもう一度新しい自分になる、そう決めて決意したものの五本も残っていては、真面目でもない自分には誘惑が多すぎる。  常に窓枠に置いてあるライターを爪で叩いた。無理だと思うまでは、口には咥えない。  怒鳴り晴らした隣人が部屋を出て、大きな音を立てて階段を降りて行ったのがわかる。こんな時間にどこに行けると言うのか、手近なコンビニで安い酒を買って、戻ってからまた、少年に怒鳴り散らすのだろうか。  じくじくと蝕まれる。もう数日でこの家とも土地とも離れる。その先、誰が少年の存在を知っておくのだろう。  唐突に、なんの足音もなく隣の家の窓が開いた。いつの間にか隣人が帰宅したのかと身構えてしまったが、そこから覗いたのは頭一つ分下に現れた少年だった。  少年もまた、まさか人がいるとは思わずこちらに驚いて身構えた。けれど知らない大人だとわかったからか、安堵とは言えずとも怯えを張り付けた表情ではなくなった。  きっとまともに栄養も行き届いてはいない、ほんの衝撃で折れてしまいそうな首と薄い肩を見るとまだ中学生頃のようにも見える。けれど髪の色は明るく、幸いにも義務教育は終えた年頃なのだろう。  よくわかる、今なにを思うのかも、この瞬間なにを求めているのかも、手に取るようにはっきりとわかる。  火もつけない煙草を指に挟んだまま、頼りない落下防止柵に肘をついた。ぎしりと危ない音がした。  自分もなにも言わない、少年もなにも言わない。冬間近、早朝の空は薄暗く、ゴミ溜めのような世界で憂いた少年が泣いている。その気持ちにも、覚えがあった。その様にも覚えがあった。  わかっていてもそれを与えようとしない自分の薄情さに吐き気がした。あれだけ、嫌程味わった大人の無関心さを自分が与える側になるとは思わなかった。  寒さに負けたか、なにも言わない大人に絶望したか、少年は部屋に戻り、がたつく窓が閉まった。  足音もなにも聞こえない、静かすぎる時間が戻った。
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