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「あれ?事情は話さなかったっけ?」
健吾との出会いや、夫との立ち位置は楓にも、典子にも話した気がしたけど。
「うん、聞いたと思う。でもさ、私が一番由実子をうらやましいのは、女として見てくれる男がいるということだよ」
コーヒーを飲みながら、つくづく、という語り口の楓。
髪を耳にかけた。
「何か話があるんだよね?私のことじゃなくてさ」
楓の癖に気づいた私は、あらためて聞いてみた。
「ん…実はね、私…」
前を向いたまま、声のトーンを落として話し続ける。
「好きな人がいるんだ…きゃっ!」
「え?きゃって中学生か」
顔を両手で隠して照れている様は、まるで10代だ。
「だけどね、どうにもできなくてねー」
「どうにかしたいの?」
少し意地悪な聞き方をしてしまう。
「どうにか…ん…どうしたいんだろ?ただ好きって言いたいだけかも?」
きゃっ!とまた顔を隠した。
「言うだけならタダなんだから、言えば?」
「えー、言ってさ、ひかれたら傷つかない?」
「確かに若い子ならまだしも、50才過ぎてたらひかれるかな?ははっ!」
楓がムッとしたのがわかったから、笑ってごまかす。
「ひかれるよね、キモいとか言われるかな?いやだよね?私なんかじゃさ…」
「あのね、年は関係ないと思うけど?実際私のことを想ってくれる人もいるんだし」
「そうだよね?大丈夫かもしれないよね?」
「てか、どうした?突然そんなこと」
今まで楓の口から好きな男がいるなんて話は聞いたことがなかった。
しばらくの無言。
「だってね…典子死んじゃった…」
言いながら泣き出した。
「え?何?いま?」
「あんまりにも突然でさ…なんにも言わずに典子がいなくなっちゃった…まだまだこれから…じゃない?」
ひっくひっくと嗚咽をあげる。
マスターがそっと新しいおしぼりを出してくれた。
「ほら…楓…あんたが泣く…と…」
言いながら、涙が込み上げてくるのを止めることができない。
マスターがもう一つ、おしぼりを出してくれた。
「ごめんなさい…こんな…お店…で」
わーんと、えーんと、いい年の女2人が喪服で泣き出した。
運良く他にお客さんはいなかったけど、マスターには迷惑だろうなと思う。
でも…。
「いいですよ、お気になさらず」
そう言うとマスターは、入り口に【本日閉店】の看板を掛けに行った。
これで思いきり泣ける…。
➖あ、私も楓も泣きたかったんだ➖
ここは泣ける場所なんだと思った。
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