紫陽花

1/1
15人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

紫陽花

「ただいま」  静かで重たい金属音が、あたたかな泥の中に微かに届く。スローモーションに響く音を、泥はぼんやりと眺めた。廊下の、それはそれは小さな足音が近づくにつれて、それは段々と自分が人であったことを思い出す。それから、ほんの短い逡巡の後、それは母親の顔で目覚めた。 「あ、ごめん」 まだ作りかけの優子の顔へ向けて、申し訳なさそうに詩織が言った。優子は欠伸を噛み殺すかのようにううんと唸り、それから結局、伸びと共に大欠伸をした。時刻は15時半を少し過ぎている。五時間。ふと呟くように優子は思った。  若干の頭痛を無表情に呑み込んで、優子はキッチンへと向かう。昨晩から溜まっている食器を片付けて、優斗と詩織の食事を準備するために。優子はこの時間が本当に好きではなかった。おもちゃ箱によく似たシンクを見ると吐き気がするし、その吐き気はこれからも毎日続くだろうから。嗚呼、仕事と家事を往復する日々で人生を消費して、私の幸せはどこにあるのだろう。優斗と詩織の父親と離婚してから、しばしばそんな考えが優子の後頭部をずきずきと痛めていた。  がちゃん。突然背後で音がした。割れたグラス、踏み台、詩織。 「ごめんなさい」 片付けるから触らないで。うわずった声の詩織を左手で制し、優子はただそう言った。それから右手で柔らかく足下を撫でて、ほら、とも。小二だもの、これくらいのミス。優子は鉛の身体にそう言い聞かせた。なぜか頭には幼少期にこっぴどく叱られた記憶が浮かんでいた。  重い金属音がして、ハッとした。確かに少しぼうとしていたが、もう、中学生が帰って来る頃だろうか。立ち上がる。16時。室内はいやに静まり返って、六月の音だけがした。  ダイニングテーブルにしわのついた紙を見つけ、嫌な考えとともに優子はそろりと覗き込んだ。色鉛筆で丁寧に塗られた、ぬり絵のプリント。その中で、左下の紫陽花の花弁だけが、わら半紙色のままだった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 〜短歌ご紹介〜 俵万智 「思いきり愛されたくて駆けてゆく六月、サンダル、あじさいの花」 リズムがとても心地よく、何度も声に出して読みたくなるような名作です。リズム感とワードがうまく掛け合わされて、疾走感のある爽やかは短歌になっています。 (本短編ではこの爽やかさがまるっきりなくなってしまっていますが、こういった変化も楽しんでいただけますと幸いです。)
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!