1/1
15人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ

 標高2475メートル。裾野でふくらむ桜に応えるように雪が溶け、目を覚ました岩達がシルクの風で顔を洗っている。奥秩父山塊(おくちちぶさんかい)のへそとはよく言ったものだ。ここは見渡す限り、息を呑むほどに山岳の大海である。甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)からとうとうと湧き出た水は縦へ横へと埼玉を突き進み、最後は東京湾へと流れ込む。何度も何度も水害を起こし、土地を荒らしてきたこの怪物は、その昔から荒川と呼ばれていた。  だがしかし、2021年にはモンスターなどいない。頑強な大橋の背には国道が走り、川沿いには鉄壁の堤防がある。極めつけは、中学校だ。こども達の学び舎が、危険と隣り合わせであるはずだろうか。つまり、橋の根本のすぐ隣りに、巨大な堤防のその上に、大河の看守は建っていた。  校舎北側から二つ目の一階教室、窓から二列目、前から四番目。自分の席から少年は窓を見ていた。マスク混じりの周回の群れがそこを走り去る度に、彼は一種の息苦しさを覚えていた。身体中の血が心臓に集まって四肢が冷たくなるのと引き換えに、心の臓のさらにその芯だけが熱く熱く脈動するような、変な心地だった。帰りのHRの後の三年二組の、机と椅子だけがぎゅうぎゅうに詰め込まれた様を何度も振り返っては、なぜかいけないことをしているような気がして、より一層胸が詰まった。  がらりと、前から音がした。ドア前の彼女は彼に目線を合わせて、外して、また合わせて、外した。それから、窓辺までゆらりと近づいて、呆れるほど無感動に呟いた。 「なにこれ」 窓際のヒヤシンス。細身のグラスいっぱいいっぱいに根は伸びて、薄紫の花達が窮屈そうに口を半開きにしている。  彼は黙っていた。分かりきっていたのだ。そんなこと、どうでもいいと。今まで二人はただの幼馴染でしかなかったが、四月、彼女は九州へ帰る。親が離婚したのだ。少年は、思わず目を瞑った。マスク越しの彼女の表情を思い浮かべることが、彼にはただただ恐ろしかった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 〜短歌ご紹介〜 北原白秋 「ヒヤシンス薄紫に咲きにけりはじめて心顫(こころふる)ひそめし日」 前後ではっきりと内容が分かれているこちらの短歌は、情熱的な意味の後の句が前の句を伴うことで、物悲しい印象へと見事に変貌しています。言葉の奥深さを感じることができる、名作です。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!