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伊川圭人との接点といえば席が前後なこと位で、歩が伊川について知っていることはほとんどなかった。鼻の先まで伸びた前髪はがたがたで学ランの袖はほつれっぱなしで、伊川はとても身なりに気を使うとは言えなかった。休み時間にはたいてい自分の席に伏せて寝ているし、一年の頃はいじめられていたとの噂もあった。二年になった今はどちらかと言うと周囲に放置されている。
歩の伊川への印象は「ちょっと変で浮いてる奴」程度だった。だから伊川がこれから転校する予定で夏休み明けにはもう学校に来ないという話を聞いた時も、さして気に留めなかった。
夏休みが近づき、半袖で外を出歩くようになった頃だった。
歩がジュースを買いにコンビニに行くと、入り口の横にしゃがみこんでいる人物がいた。その人物はこの暑い中長袖に長ズボンを着て、棒つきアイスの袋を開けようとしていた。しかし不器用なのか上手く開けることができず、透明な袋越しにアイスが溶けかかっているのが見えた。歩は何の関係もないのに、はらはらしながらそれを見つめていた。
「あっ」
ようやくアイスの袋が無事開いた時、歩とその人物は同時に声を上げた。歩は慌てて口を押さえたが、その人物はゆっくりと顔を上げて歩の方を見た。
「あれ、歩くん」
その人物は紛れもなく伊川だった。関わるつもりはなかったのに、歩はびっくりしてつい応じてしまった。
「俺の名前、知ってるんだ」
「同じクラスだから」
それはその通りなのだが、伊川はいかにも周囲のことを気にしていなさそうな人間だと思っていたので意外だった。いきなり名前で呼ばれたのも予想外だ。
伊川はぱくりと一口アイスにかじりつくと、少し置いてから微妙な顔になった。
「…」
歩は思わず訊ねた。
「おいしくないの?それ」
「うん」
伊川は頷いてから大きなため息を吐いた。それから、額から垂れてきた汗に気が付いて前髪を思い切りかき上げた。
歩は声こそ出さなかったものの、前髪に隠されていた伊川の顔立ちに目をみはった。
露わになった太めの眉は整った形をしており、猫のように大きな目と長い睫毛は人目を惹くのに充分な華やかさだった。しかし当の伊川は歩の驚きなど全く知らずに言った。
「メロン嫌いなのに。マスカット味と間違えて買っちゃったんだよね」
歩はむしろアイスの中でメロンが一番好きだったし、ひどく喉も渇いていたので、伊川のそばに歩み寄って訊ねた。
「じゃあそれ、俺にくれない?」
伊川は一瞬きょとんとした顔で歩を見たが、すぐに「ん」とだけ言って歩に溶けかけのアイスを差し出した。歩は伊川の隣にしゃがんでアイスを受け取り、かじりついた。
「おいしい?」
「うん」
「よかった。そう言ってくれる人が食べる方がいい」
その物言いも一緒に見せた笑顔も思いがけず魅力的だった。歩は溶けたアイスをごくりと飲み込んでから、ふと思い出して言った。
「そういえば伊川って転校すんの」
「ああ、うん」
あっさりと頷いた伊川は転校など全く気にしていないようだった。彼ほど周りと接点がないと、どうでもいいことなのかもしれない。歩はさらに訊ねた。
「何で長袖なの」
「うーん、秘密」
目を伏せながら答えた伊川の表情に一瞬だけ陰りが差した気がした。そんなことを気にしていたせいで、アイスが溶けて手にぼたぼたと落ちるまで気が付かなかった。
「うわっ」
「あちゃー」
手が汚れてしまい歩が動けずにいると、伊川がポケットから無地の赤いハンカチを取り出して歩の手を拭った。
「…サンキュ」
いかにも持っていなそうな人物からハンカチが出てきたことに歩が驚きを隠せずにいると、伊川は更に予想外のことをした。歩の口元にそっとハンカチを押し当てたのだ。
「こっちもついてる」
強めの柔軟剤の匂いに交じって甘ったるいアイスの匂いがしたが、歩は不思議と不快ではなかった。むしろハンカチ越しに伝わってくる伊川の指先の温度は心地よくさえあった。
歩はほんの少し熱に浮かされそうになったが、暑さに自分を持っていかれぬように努めて平静に言った。
「そのハンカチ洗って返すよ」
「いいよ別に。気にしないし」
「いや、さすがにそれは悪い」
「えー」
「俺が気にするんだよ」
そう言って歩が半ば強引に伊川からハンカチを奪い取ると、伊川は特に何も言い返してこなかった。こうでもしないと次に伊川に会う機会が永遠にやってこない気がしたのだ。
「次会ったら返すから」
伊川はそれに否定とも肯定ともつかない曖昧な首の振り方をすると、不自然に話題を変えた。
「今日すごく暑いよね」
「ああ、うん」
「絶対30度は超えてる。頭だるいし」
そう言って伊川がうつむき加減になると、先ほどかき上げた前髪が、きれいな円弧を描いた額にはらはらと零れ落ちた。
「伊川さ、その前髪邪魔じゃない?」
「少しね。もう慣れたけど」
「俺が切ろうか」
歩は断られるだろうと思って言ったのだが、伊川は案外あっさりと言った。
「じゃあお願い」
歩は伊川を自宅に招き入れ、自分の部屋へと連れて行った。
「はい。お茶」
「ありがと」
伊川は差し出されたお茶を一気にごくごくと飲み干した。
「はぁ、生き返る」
「道具持ってくるから待ってて」
「うん」
歩は櫛と髪を切るハサミを用意し、座っている伊川の目の前にゴミ箱を置いた。それから彼のサイドの髪をピンで留めた。
歩が前髪に触れると、伊川は何も言わずとも目を閉じた。何度か長い前髪に櫛を入れるうち、その髪が存外細いことが分かった。
充分に髪をとかした後、歩はまず、ばつりと横向きにハサミを入れた。不揃いだった毛先を眉の下あたりで揃えるように切り落とすと、伊川の美しい顔立ちが露わになった。
少し髪を切っただけで一気に華やいだ伊川の顔を見て、歩はごくりと唾を飲み込んだ。とんでもない原石を発見したような高揚感にハサミを持つ手が震えたが、なんとかそれを抑え込みハサミの向きを縦に変える。
ちょき、ちょき。毛先に行くにつれ徐々に毛量が少なくなるように、顔のカーブに合わせて余分な毛を切り落としていく。切っている間ずっと伊川はぴくりとも動かず、精巧な彫刻のようにすら見えた。
額に汗をにじませながら、歩はようやく作業を終えた。
「はい、できた」
歩が伊川に鏡を見せてやると、伊川は「おおー」と言いながら自分の前髪に触れた。
「すごい軽くなった」
「嫌じゃないか?それ」
「全然」
「よかった」
のんきに鏡を見つめる伊川本人より、歩の方が彼の変化に驚いていた。たかが前髪を切っただけでこうも人間の印象が変わると思わなかったのだ。
「おー」だの「すごい」だの言いながら前髪をいじり回す伊川は幼い子供のように見えて、歩はどんどん伊川のことが分からなくなっていった。歩がなんと声をかけるべきか迷っていると、歩の部屋の壁かけ時計を見た伊川が立ち上がった。
「ああ、俺そろそろ行かなきゃ」
「あ…うん」
引き留める理由は見つからないが、それでももう少し伊川に留まっていて欲しかった歩は言った。
「このハンカチ、明日返すよ。明日あのコンビニの前にいるから。何時がいい?」
「いつでも」
「じゃあ、12時。12時でいいか」
「うん」
「あー、えっと、あの…」
もっと何か上手く言葉をかけたいのに、今まで変な奴だと思っていてごめんだとか、何でメロンアイスが嫌いなのだとか、くだらないことしか思いつかず歩は嫌になった。
「あのさ、別にお礼じゃないけど」
伊川は唐突にそんなことを言い出して、ぐいと両腕の袖をまくった。
「俺の秘密。ちょっとだけ」
「…え」
歩は伊川の腕を見て瞠目した。
くしゃくしゃの袖から覗くほっそりとした腕はひどく色が白く、赤黒い打撲痕だらけだった。根性焼きのようなものや切り傷も見受けられ、どうやったらこんな風になるのか歩には見当がつかなかった。
歩はその光景に魅入られたように突っ立っていた。治りかけの黒っぽいものやできたばかりであろう赤いもの。切り傷が治った痕とおぼしきピンク色に盛り上がった肉。まばらにつけられた円形の痕。これはいったい何なのだろう。外からの蝉の声がいやに大きく聞こえてきて、歩はまるで頭の中をかき乱されるような心地になった。腹の底から得体のしれない嫌悪感が込み上げ、ぐらりと眩暈がした。
伊川はそっと袖を戻すと、何も言えずにいる歩を見つめてにっこりと微笑んだ。それはあの腕の持ち主に似つかわしくない女神のような笑みだった。
「歩くん」
伊川は不意に歩に向かって手を伸ばすと、ちょん、と優しく人差し指で歩の唇に触れた。それだけで歩はまるで伊川に呼吸の自由を奪われてしまったかのように息苦しくなり、吐息の一つも漏らすことができなくなった。
「苦しそうだね」
伊川は不器用な動きで歩の唇をなぞった。歩はただ、唇に染み込んでくる彼の熱を受けとめることしかできなかった。
やがて伊川がそっと手を離すと、歩はようやく呪縛から解き放たれたように呼吸が楽になった。伊川は何事もなかったような顔でひらりと手を振りながら言った。
「ばいばい、歩くん。色々ありがと」
「…おう」
伊川は「おじゃましました」とだけ言うと、一度も振り返らずに歩の家を出た。とん、とん、と軽快にアパートの階段を下りていく伊川の背中を、歩はずっと見つめていた。
翌日の12時になっても伊川はコンビニの前に現れなかった。
しばらく待ってみたが伊川は一向に現れず、次の日もその次の日もついに姿を見せなかった。歩はため息をついてコンビニの外壁にもたれかかった。
伊川に聞きたいことはたくさんあった。マスカット味以外に好きなアイスはあるのかとか、自分の見た目をどう思っているのかとか、あの腕の傷はいったい何だったのか、とか。連絡先を交換するのも忘れていたし、もっと色々話してみたかった。
歩は目を閉じた。今でも伊川の腕の傷は、鮮明に脳裏に焼き付いている。歩はそのまま自身の唇に触れながら、伊川の指先の感触を思い起こした。伊川がどうしてあんなことをしたのか全く分からなかったが、彼にされるがままになったあの一瞬を思い出すだけで頬が熱くなった。
「伊川。…伊川、圭人」
確かめるようにその名を呼んでみても、返事は無い。
「意味わかんねえよ、お前」
歩はポケットから真っ赤なハンカチを取り出した。あの時のようなきつめの柔軟剤の匂いがしなくなっていることに気が付くと、もう二度と彼に会えないような気がして、歩は何だか泣きたくなった。
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