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②
僕の祖母は昭和十何年生まれの世代で、戦後の幼少期を女手ひとつで育てられた。
父親だけでなく、何人もいた兄やいとこは殆ど戦死したと聞かされた。ある者は甲板で爆弾の直撃を受けて死に、ある者は東南アジアで行方知れずになったのだという。
父親は海軍で偉くなったようで、町で祖母の旧姓を口に出せばそこは狭い町だし、あまり無い名前なので、当時を知る者は誰々さんとこのお孫さんか、などと目を細めた。
祖母は、父は立派だった、叔父さんはどこどこに勤めている、あんたも勉強して偉くなりなさい、というのが口癖で、学歴コンプレックスを持つ祖父もそれに輪を掛けるので、ロックミュージックに傾倒する当時の僕にとって、家族団欒は居心地の良いものではなかった。
祖母は若い時から働きに出ていたようで、定年まで勤めあげた。また車の運転免許を若い時に取得しており、それは当時非常に珍しい事であったようだ。僕は祖母が退職した頃やっと物心ついた。祖母の会社の、化学薬品か何かを入れるのであろうカメラのフィルムケースみたいな物が家にたくさんあり、僕はそれに土を入れたり、虫を入れたりしていた。
定年してからの祖母は畑を耕す事に勤み、いつでも家にいた。僕の母親が働きに出ていたから、物心ついてからは祖母といた事の記憶が多い。小学校の夏休みは毎日一緒にテレビの「あなたの知らない世界」や昼のメロドラマを見た。
溺愛という程ではないが、祖母からは愛を注がれていたはずだ。しかし戦中と戦後の苦しい世代を生き抜いた世代であるので、贅沢は敵という思想が根深く、物を買ってくれた事はなかった。
ただ、幼い僕にも歯の浮く台詞だとわかる言葉で、僕の事を他所の人に紹介した。その愛は確かに僕に向けられていたが、いずれは祖母に返るはずだったに違いない。祖母が卑しい思惑でそうしたという意味ではなく、その世代の人達にとっては至極普通の事だったのだと思う。そして残念ながら、祖母の愛が祖母自身に返る事はなかった。
僕が中学生に上がった5月、初めて「テスト期間」というものがあった。テスト期間中は昼までで帰れるのだが、ロックミュージックに目覚め、音楽ラジオ番組への投書を日々の生業としていた僕の頭の中には、帰宅した時既に夜のラジオの事しかなかった。そんな僕に勉強しなさいよ、賢くなって叔父さんのようになりなさいよと言われても、そういう場面での上手な受け答えができる歳でもないから、それはそれは無様な返答をしたのだと思う。
祖母を軽くあしらい自室のある2階へ上がった僕の耳には、階下で祖母が物を投げる音、扉を必要以上に強い力で閉める音がしばらく聞こえた。僕はいつ祖母が包丁を持って自室に押し入ってくるかと思い、肝を冷やしていた。
これから自分が導くのだと言葉を掛けた矢先、その餓鬼に幼い理屈で一蹴されたのである。今の僕の歳になったら多少はわかる、その屈辱たるや。しかしこの場面では祖母が悪い。まだ自我のない幼児であればいざ知らず、中学生ともなれば、先ずは彼の考えに寄り添わなくてはならない。寄り添って彼が心を少し許した頃に、少しずつ自分の知恵を入れてゆくのである。だがそこは戦中戦後の人、そのような人心掌握の術は持っていない。家でも学校でも職場でも、トップダウンの教育しか受けていないので、そうする術しか知らなかったのだ。
ただ今になって思うのは、僕にも癇癪を起こすきらいがあるので、当時の祖母に多少ではあるが親近感を覚えるという事だ。あるいはそういう血筋なのかもしれない。
その後何年かして祖母は、町の民生委員という仕事を始めた。そのためか気を病んで鬱病となり、それからは僕の振る舞いに対して何も言わなくなった。
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