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 僕は、犬を殺したのは祖母なのだと思っている。  我が家で飼っていたその犬は、芝犬の雌だった。代々絶やさず犬を飼ってきた我が家の、先代の犬が死んでからほどなくして、祖父が他所から貰い受けてきた。僕が小学生の頃の事だ。芝犬らしいのだが全身が焦げ茶色で、鼻の回りだけ黒かった。雑種だったのだろう。  潤んだ黒く丸い瞳で、首を傾げながらこちらを見つめる。頭を撫でてやると、それが他所の人であっても、嬉しさのあまりおしっこを漏らす癖があった。    成犬しても大変小柄な愛くるしい犬だったが、気性は荒かった。と言ってもその荒れ方は異様で、人に向かって吠えるとか噛むとか、そういう類いではない。機嫌良くしていたかと思えば突然、けたたましく吠えながら自分の尻尾を追いかけてグルグル回るのだ。時には悲痛な声で鳴きながら回ったが、そこはもの言わぬ犬、何が気に入らずにそうしているのか、僕らにはわからなかった。家族は次第に腫れ物を扱うように接しだし、彼女に触れてやるのはついに僕だけになった。  ある日彼女は自分の尻尾を捕まえて、それをずたずたに噛み裂いた。血の滴る尻尾をそれでも追い続ける姿は悲痛そのもので、見かねた父が獣医に連れて行った。戻った彼女に尻尾は無かった。  尻尾をお尻の根元から切断され、その傷口を皮で塞いで縫われた姿だ。縫い跡が痛々しかった事と、剃った傷口には毛が生えてくるのだろうかと思った事、尻尾の無い犬を他所の人に見られたら恥ずかしいなと思った事を覚えている。  傷口に触れないようにと、彼女はしばらくエリザベスカラーを付けていたが、お構いなしにグルグル回っていた。そうするのは、尻尾が理由ではなかったようだ。今度は傷口が気になるのかもしれない。  そんな彼女でも一応女なので、近所の野良犬にちょっかいを出されていた。ある晩何気なしに外へ出てみると、野良犬が彼女の背後から覆い被さっているまさにその瞬間に出くわした。僕に見つかった野良犬はばつが悪そうに、てくてくと退散した。犬にも気まずいという感情があるらしい。  幼い僕も気まずさを感じたが、これで彼女の子犬が産まれるという事を、大変嬉しく思った。僕が中学生に上がった頃だったと思う。  それから僕は、残りものを使って彼女に用意されるみそ汁ごはんに、滅多に食べさせぬドッグフードをまぶしてやったり、夕方の散歩を念入りに行ったりと、彼女が健康な子犬を産むために勤しんだ。根拠はないが良かれと思って行った奇行の数々は実らなかった。どうやら妊娠していなかったようだったのだ。  そういえば野良犬に乗られていた前後に彼女は、機嫌を損ねていつものようにグルグル回らなかった。  その日は突然訪れた。どの季節だったのかはっきり覚えていないが、朝の弱い僕が起き出す時間にまだ薄暗かったので、冬だったのだと思う。台所に顔を出すや否や、母が「ハナが死んだよ」と言った。ハナとは彼女の事である。  外へ出ると、軒下に寝かされた彼女は動かなくなっており、横で妹がしゃがみ込んで泣いていた。妹も僕ほどではないが、彼女を可愛がっていた。  朝が弱い僕の代わりに、朝の散歩は父か祖母が行っていた。気難しい彼女の散歩が億劫なので、鎖から離してやり、自由に走り回らせている間に食事を用意し、それに気づいた彼女が戻ってくる、という方法を採っていたらしい。僕の実家は山陰地方の農村で、隣家と数百メートル離れているため、その環境がなせる術だ。  聞くところによるとその朝彼女は犬小屋におらず、鎖と首輪がそこに残されていたのだそうだ。誰だか忘れたが農作業へ行く途中、道路に横たわる彼女を見つけたのだという。  僕は、悲しむよりも呆気にとられた感じになり、家族の誰にも触れてほしくなくて、いつも以上に不機嫌な朝を過ごして登校した。
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