11人が本棚に入れています
本棚に追加
不景気と年齢的なことから再就職先は見つからず、最後にこぎつけたのが老人ホームだった。
こうして私は経験のない介護の現場で一からやり直すことを決めた。収入は減ることになったが、すがる思いで就職した。
それまでの仕事と百八十度違う世界だ。おむつ交換をはじめとして覚えることが山ほどある。
早くも音を上げそうだった。それでも体を動かす仕事のほうがいいと思った。そうでないと自分の身に起きた不遇や見えない先のことばかり考えてしまう。
まさかこんなことになるなんて。
情けないことに、考えると涙が滲んだ。
多額の住宅ローンを抱えているところに、遥佳の進学希望も重なり、まるで見通せない未来に最近は塞いでいた。それでも娘が望む未来は叶えてやりたかった。
世の中にはもっと辛くて苦しい人がいる。自分はまだましだと言い聞かせた。だが、一度折れた心はなかなか元に戻らなかった。
ふと廊下の先を車椅子に乗った入所者がのろのろと進んでくるのが見えた。
江村のおばあちゃんだ。
例の歌を歌いながらこちらに向かってやってくる。
やがて江村のおばあちゃんは目の前にきた。
「江村さん。歌が上手だね」
「あの人とよく歌ったのよ」
「あの人?」
「主人よ。笑った顔がとっても素敵だったの。あら、あなたも笑顔がとっても素敵ね」
江村のおばあちゃんは目をキョロキョロ動かしたあと、私の顔をじっと見た。
「江村さん。笑顔じゃなくて、これ……」
そこまで言ってハッとした。気がつけば、マスクの下で口もとが緩んでいた。
知らず笑顔がこぼれている。
「あなた! 迎えにきてくれたのね。ずっと家に帰りたかったのよ」
楽しげに手拍子を打ち、江村のおばあちゃんが歌い始める。そんな江村のおばあちゃんの歴史に思いを馳せる。
大切な人と過ごした日々。
歌声は音程が外れているのに、その姿に熱いものが胸に湧いてきて、やがて頬を流れた。
辿った道は違うけど、みんな生きてきたんだ。
最初は家族のために選んだ仕事だった。
私の中でなにかが少しだけ変わってきたように思えた。
作り物の笑顔、それは偽りの笑顔のはずなのに。
「あなたの笑顔は素敵よ」
江村のおばあちゃんは顔をくしゃくしゃにして笑っている。
笑顔のマスクをつけたとき、和代も遥佳も笑っていた。だけど、私はふたりに本当の笑顔で応えることができていたのだろうか。
「江村さんの笑顔のほうがよっぽど素敵だよ」
気がつけば私もマスクの下で笑顔が溢れていた。
もういいじゃないか。
終わったことだ。家族と過ごした日々は確かなものであり、そこに生きた証と大切な思い出は残せたのだから。そう思えるようになった。
後ろばかり向いていてはいけない。
「三か月経ったので、村上さんも来月から夜勤に入ってもらいます。最初の一ヶ月はサポートがつくので、そのあいだにわからないこととかあったらその場で質問して、ちゃんと覚えてください」
川奈主任から告げられた。
そうだ。夜勤が始まるんだ。日中の仕事もままならない私が、果たして夜勤なんかできるのだろうか。不安を感じ、黙り込む。
「期待していますよ。がんばってくださいね」
「はい」川奈主任の激励に胸を張って答えた。
前を向いて生きるんだ。大切な家族との生活を守るために。
最初のコメントを投稿しよう!