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笑顔のマスク
川奈主任との面談から一ヶ月が過ぎた。
日増しに冷え込みが増していく中、私の仕事ぶりに変化はなかった。どうしても自分の殻を破ることができないでいた。
早番の朝、家を出る前に洗面台の鏡を見ながら歯を磨く。
そのあと職場から支給されたマスクをつける。依然インフルエンザが猛威を奮っている。
そこに和代がやってきた。鏡越しに彼女がなにか手にしているのが見えた。
「あなたにプレゼント」
サンタの絵がプリントされた包装紙で平べったくラッピングされている。
そうだ。今日はクリスマスイブだった。施設のフロアにクリスマスのイルミネーションを飾りつけたのに、自分には関係ないと思っていた。
「ハンカチかな?」
つぶやきながら、がさがさと包装紙を開いた。
肌色が見えた。やはりハンカチか。
いや違う。マスク? にしては大きいように思えた。
ふたつに折りたたまれたそれを広げた。
やはりマスクだ。だけど、そのデザインに絶句した。
「あなた、最近ずっと暗い顔してたから。少しでも元気に見えるようにと思って作ったの。仕事のときにつけてみて」
一ヶ月前、川奈主任から表情について指摘を受けたことは、自分の胸に留めておこうと思っていた。だが、私の様子に気がついた和代に質され、正直に打ち明けたのだ。
和代は私のことを気にしてくれていたのだ。自分もパートの現場で悩んでいるのに。だけど……。
「これじゃまるでピエロじゃないか」
肌色の布に口元が刺繍されていた。白い三日月の輪郭をなぞるように、紅色の唇が縫いつけられている。そのせいで白がやけに目立った。
「だって仕方ないじゃない。あなた変われないんでしょ。どうせマスクするなら、笑った顔になっちゃえばいいのよ」
「むちゃくちゃだ」
「わたしからあなたにできることって、これぐらいしかないの。ねえ笑顔は大事よ。早くつけて見せてよ」
和代に促され、もう一度、手のひらで広げて見た。
笑顔のマスク、とでも言うべきか。歯を見せて笑う口元がリアルだ。こんな奇抜なマスクを、もうすぐ五十になろうかというおじさんがつけて働く姿を想像してみた。
ぜったい無理だ。
「このマスク、ちょっと笑いすぎじゃないか」
「笑顔は大げさなくらいのほうがいいのよ。あなた、いつも怒ったような顔してるじゃない。そんなむっつりした顔してると、おじいちゃん、おばあちゃんに怖がられるよ」
たしかにそうかもしれない。
「ほら、早く」
やれやれ。もらったマスクを装着し、恐る恐る洗面台の鏡を見た。
笑った顔の私がいた。
「パパ、そのマスク。かわいいね」
たまたま通りかかった遥佳が、鏡越しに私の顔を見て笑った。
遥佳の笑顔を見るのは珍しい。彼女はここ最近、部屋に籠もったきり出てこない。久しぶりの笑顔に、私の頬も自然と緩む。でも、そうしなくとも私の顔は笑ったように見えているはずだ。和代のくれたマスクのおかげで。
彼女は私がつけたマスクの笑顔に吊られて笑ったのだ。
遥佳のほうを振り返る。
「いい顔してるだろ」
マスクをつけた自分の顔を客観的に想像すると笑ってしまう。
まるでマスクの笑顔が意思を持ち、私の感情に憑依したような不思議な感覚を覚えた。
「やっぱりパパは笑った顔がいいよね。遥佳」
そういう和代も、ここ最近は笑顔を見せることが少なかった。
和代の視線が私の口元に釘付けされている。
少しの間があって、彼女は白い歯をこぼした。
マスクの笑顔に笑顔を向ける。できればチューしてほしいと願ったが、さすがに叶わなかった。
和代はこのあとパートに出る。夫婦がともに必死で働かなければ生きてはいけない。
浮ついてなんかいられない。気を引き締めた。
ふと和代の髪の付け根が白く光るのが目に入る。以前は丁寧に染めていた髪の毛は、白髪が目立つようになっていた。
すべて私のせいだ。そう思った瞬間、マスクの下に湛えていた笑顔はすっと消えた。
「行ってらっしゃい。がんばるのよ」
和代に背中を押され送り出された。
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