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理不尽な過去
職員通用口で職員証を取り出す。
『村上則之』と書かれた名刺サイズのカードには、採用時の顔写真が印刷されている。いまよりずいぶん太って見えた。
更衣室で制服に着替え、和代からもらったマスクを装着して現場に入る。
「あら。村上さん、笑顔のマスク。いいじゃない。グッーよ」いつもと違い、柔らかい口調で川奈主任が声をかけてきた。「イメチェンは大事だから。その勢いで、お昼からのレクは入所者が聞き取れるように、大きな声ではっきりとお願いしますね」
娘と見た目がそう変わらない川奈主任から指示されることにもようやく慣れた。いや、プライドがないと言えば嘘になるか。
いまの職に就いて、もうすぐ三ヶ月になる。それまでは日用品を販売する小さな会社で業務主任をしていた。販売ルートへの納品から在庫管理、経理業務、社内の便利屋として、毎晩遅くまで働き、ようやく手に入れた役職だった。数年前のことだ。
昇進が決まったとき、和子は飛び跳ねて喜んだ。その夜、近くのレストランでお祝いをした。
主任になれば役職手当がつき、わずかだが給料が上がる。少しぐらい贅沢したっていいだろう。羽振りよく料理を注文した。
あのとき豪華な料理が並んだテーブルは輝いて見えた。
和代と遥佳に好きなものを買えと気前よく小遣いも渡した。
そんな生活がずっとつづくと思っていた。
順調に進むはずだった人生が狂い始めたのは、先代の社長が急死してからだった。親族経営の会社だったので、当然、次の社長に息子が就任した。
新社長はすべてを自分のカラーに染めていった。
IT関連に勤めていた友人を引き抜き、社内を改革した。
それまでエクセルや手書きでやっていた業務はなくなり、誰でも簡単にできるシステムが導入された。
時間は大幅に短縮され、当然それまで必要だった人員は削減された。
私もその中のひとりだった。
家族と遊びに行く約束さえ守れず、会社のために働いてきたのに。
理不尽な話だった。
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