老人ホームの仕事

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老人ホームの仕事

 老人ホームの晩ご飯は午後五時半からと早い。暖房が効いた食堂ホールに、車椅子の入所者が職員に付き添われ集められる。  テーブルには柔らかいご飯と小骨まで抜かれた鮭のソテー、柚皮が刻まれたカブの漬物がひとりずつトレーに載せられ並んでいる。食事の匂いに混じり、施設に染みこむ排泄臭が微かに鼻腔を抜けた。  早番は四時までだったが、上司と急な面談が入り、いつしか五時半を回っていた。  ホールに集められた入所者を横目に更衣室に入る。ストレッチが効いたユニフォームから私服に着替える。  更衣室を出たところで、 「村上さん、忘れ物よ」  刺すような女性の声に体が硬直した。胸元に紙袋が突きつけられる。 『村上則之(のりゆき)3ヶ月分』と手書きの付箋が貼られている。中身は不織布マスクだ。  十一月に入り、市内でインフルエンザの感染が確認されたことを受け、全職員に勤務中はもちろん通勤時もマスクの着用が義務付けられた。そのために支給されたマスクだ。主任と面談したときに忘れてきたのだ。  正面に視線を移すと、川奈主任と目が合った。私の上司だ。と言ってもまだ若い。四十後半の私より一回り以上も年下だ。たしか二十代後半ぐらい。長い髪を後ろでひとつに結び、化粧気はない。高三の娘を持つ私からすると、主任は娘とそう変わらない年齢なのだが。 「うがい、手洗い、マスク。基本を忘れてはいけません!」  まるで母親のようなことを言う。その威圧感が半端ない。  軽く会釈をしてそそくさと立ち去る。  この仕事に就いてまだ日が浅い。少しでも早く帰りたかった。  外はすでに暗い。駐車場までの道のりを頼りなげな外灯が照らしている。  冷たい風が吹き抜け、裸になった街路樹をぶるぶる震わせた。首筋を撫でる風のせいで肌が引き締まる。
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