ありがとう

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ありがとう

 母は、感謝の人だった。  春の盛りの暖かい日。桜がそっと散るように、穏やかに、逝った。  母はいつも周りの人にペコペコと頭を下げていた。そんな腰の低い母が、どことなく、頼りなく、情けなく見えて、反発した時期もあったが、母の血を受け継いでか、私も生来穏やかな質だった為、反抗期は長く続かず、家族はそれなりに円満だった。  月が陰るように、認知症が私の母を蝕んだ。元々おとなしかった母は、暴れる事も無く、傍目からすれば、比較的介護は楽な方に映っただろう。  しかし、時間が逆行するように、子供のように、身の回りの事さえ、どんどん出来なくなって行く。そんな母を見ているのは、つらく。思わず冷たく接してしまった。  母は、子供時代に。私は、反抗期に。それぞれ戻ってしまったようだった。  そんな時でも、母はいかにも申し訳無さそうに、絞り出すように、  「ありがとう」  の言葉を欠かさなかった。  そんな母に素直に応えてあげることが出来ず、素っ気ない態度しか取れない自分。  母の最期の日まで、私は、、、、、、。  母には、申し訳無い事をした。あんなに優しかった母に、私は優しさを返せなかった。  からっぽの布団、からっぽの身体、からっぽの心。  後悔の念から、私は、素直に泣く事も笑う事も出来ず。ただただ、冷たくなった母を見送る事しか出来なかった。  葬儀も一段落すると、ぽっかりと心に穴が空いた。寂しさを埋めるように、私は母の遺品整理をはじめた。  母は元来、可愛い物が好きで、遺品も、手縫いの着物を着せた小さな人形とか、子供っぽい物が多かった。晩年の子供帰りしてしまった、そんな母を見るようで、ますますつらく、私は母の思い出を次々とゴミ袋に押し込んだ。  そんな私が唯一捨てれなかったのは、アルバムが詰め込まれた小さな箱だった。ひと月程は、中をみる気も起きなかったが、次第に母恋しさが募り、私はそっと箱を持ち出し、頁を開いていった。  切れ切れに切り取られた記憶の集合体に、目を通すたびに、紐付けられ、結び付き、織り成すように、鮮やかに記憶が蘇って来た。  このアルバムだけは、大事にとっておこう。そう思いながら、ふと箱の底を見やると、束になったノートが目に入った。母の日記だった。  とはいえ、筆まめでなかった母の記録は、実に淡々としたもので、色とりどりのアルバムに比べて、拍子抜けしてしまった。  母の認知症がはじまった頃から、奇妙な記述がはじまった。『○月○日忘れたくない。』と言う文字列が頻繁に見受けられるようになった。アルバムの日付と対応している事に気付くまで、長くは掛からなかった。だから母は、アルバムと日記を一緒に保管していたのだろう。  私は、日記を片手に、もう一度アルバムをめくった。  「娘産まれる、産まれてくれて『ありがとう』」  『忘れたくない』  「はじめてのおてがみ、『おかあさんありがとう』の文字」  『忘れたくない』  「高校最後のお弁当、『三年間毎朝ありがとう』の手紙あり」  『忘れたくない』  「娘、結婚式、立派に育ってくれて『ありがとう』」  『忘れたくない』  私は、気付かぬ内に、折りに触れて、母に感謝を伝えていたんだ。そして、母もそれに応えてくれていたんだ。少しだけ、救われた気がした。  アルバムを閉じ、日記を読み進める。  「思い出せない。」  「忘れてしまう。」  「どうして。」  読み進めるのが、つらかった。  そして、とうとう。  「毎日ごはんをつくりに来て下さる。近所のお姉さん、とても優しい。」  これは、私だ。母は、私を娘と認識出来なくなっていた。ショックだった。  「あのお姉さんは、だれだろう。」  「優しい母のような人。」  「お母さんは、きょうもごはんを作りに来て下さった。」  母は、自分の娘を母と勘違いするほど、意識の混濁が進んでいた。  つらくて、つらくて、もう頁を閉じてしまおうと思ったとき、ノートの途中で唐突に最後の頁はやって来た。もはや書かれた日付さえ分からない。日記とは呼べない状態だった。  そこには、消え入りそうな、たどたどしい文字で、  「お母さんありがとう。」  とだけ、書いてあった。これは、日記じゃない。手紙。お母さんから私への、最後の手紙。奇しくも、私がはじめて書いたおてがみと、同じ文面だった。  すべてを忘れてしまっても、母は感謝の人だった。  すべてを忘れてしまっても、私達は、親子、いや親子以上の絆で結ばれていたのかもしれない。  「こちらこそ、ありがとう、だよ。」  いつぶりだろう、涙があふれていた。  「まま、どうしてないてるの?」  娘にみられていた。少し気恥ずかしくて、なんでもない、とごまかした。  「まま、これ、ようちえんで つくったの、 はいどうぞ。」  折しも母の日が近かった事もあり、娘がそっと手渡してくれたのは、はじめてのおてがみだった。  そこには、たどたどしいけど、力強い文字で、  「ままありがとう。」  と書いてあった。  再びの涙に混じって、今度は笑顔も込み上げて来た。  親子の「おてがみ」のおかげで、私はまた、ささやかだけど幸せな日々を取り戻す事が出来た。
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