2、ヴァイオリン協奏曲 in レマン湖

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2、ヴァイオリン協奏曲 in レマン湖

気が付くと、目の前には広大な湖が広がっていた。意識が平衡を取り戻し頭がはっきりすると、彼はそれがレマン湖で、自分がこの地へ療養のため滞在していることを思い出した。 では、今のは夢だったのか? いや、セルゲイの部屋で歌曲を披露したあの場面は、確かに存在した。あまりに心に強烈な印象を残したために夢と現の見境を失くし、幾度も夢の中によみがえってくるのだった。 自分の眼差しがその熱意で捉えたセルゲイの瞳の青、それが彼の記憶の中で無限に広がって、今目前に湖となって出現したかのようだ。 青い湖面には、穏やかな波が静けさに寄り添うように起伏している。世間の喧騒で狂いを生じた時はここにはなく、湖面に本来の姿を映し出す、悠久からの変わらぬ時が流れていた。 この景色と静寂に、どれほど多くの人が癒されたことだろう。 彼、ピョートルもその一人だった。レマン湖から立ち昇る静穏と澄明さはまた、彼の創作意欲を掻き立てた。交響曲、オペラと、ピョートルは精力的に書き上げていった。彼の天賦の才能を円滑に開花させていくことが、心の病からの最良のリハビリでもあった。 自分を蘇生させてくれる恵み豊かなこの湖、彼は湖や周りの風景や澄んだ空気を、心から愛した。そして、湖から生まれ湖へ還っていった甘美な思い出の夢。握り締めた友の友の手の温もりは、感覚を超えて心の深奥部に熾火のように残り続けた。 今再び生々しく甦ったその感触は、ピョートルの狂おしい情熱を掻き立てた。 「セルゲイ、セルゲイ!」 彼は夢を呼び戻そうとするように、湖に向かって叫んだ。叫び声は湖面に反響して、眩い輝きを発散した。すると、湖の向こう、アルプスの山々の方からこだまのように響いてくる声があった。 「ピョートル……」 それは山の彼方から聞こえてくるかと最初思えたが、実は脳裏に直接届いていた。はるか遠くからの声でありながら、まるで耳打ちするかのように秘密の親密さを帯びた声。今のピョートルにはその声の主がセルゲイだとしか思えなかった。 「セルゲイ、君なのか、どこにいるんだ?」 その声の主は、驚くべき事実を告げた。何百光年も離れた惑星から物体と化した肉体を離脱して、ここ地球へやってきた異星人なのだと。 その説明をピョートルが理解したかどうかはともかく、音楽家である彼はその異星の声の主との絶妙な共鳴を直感的に感じ取った。その直感こそが音楽家の創作の指針となるものであり、どんな理屈より信頼すべきものだった。 二人は驚くべき早さで親しくなり、音楽の創作におけるパートナーとなった。そして当然のように、ピョートルはこの異星の友人に「セルゲイ」と名付けた。 二人の共作の1作目は、「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」だった。 主役のヴァイオリンの音色は地上の規範や重力から解き放たれ、天界の花園を舞う蝶を思わせた。 それは、異星人セルゲイの滾々と泉の如く湧き出るインスピレーションをピョートルの愛が受け止めて、天才の手腕で音楽に結実させた作品だった。 天性の音楽家の感性に無窮の宇宙を源とするインスピレーションが合わされば、無敵だった。 この世のものと思われぬほど融通無碍に流れるヴァイオリンの音色は、ほとんど技巧が追い付かず、演奏不可と最初は却下された。 しかしこの協奏曲が音楽史に残る名曲となるのは、後世の評価を俟つまでもなかった。 この曲は技巧の難易度の高さだけでなく、曲が出来るまでの早さでも異例といえた。なんと、一か月足らずで完成するという驚くべく早さだった。 レマン湖の広大な自然の無尽蔵の母性的な恵みに、二人の友情は育まれていった。 ピョートルの脳に直に伝わる異星人の声はセルゲイそのもので、その声を聞くとピョートルの心には十代の少年のままの懐かしいセルゲイの姿が浮かび上がってきた。 セルゲイに対する情熱に加え、異星人からあふれ出てくる音楽のインスピレーションに夢中になるあまり、ピョートルは異星人セルゲイの正体について詮索することを忘れていた。 ただ、地球の存在ではないことは彼にも理解でき、ならば神のような存在だろうと漠然と考えた。 惑星といえば金星や火星しか思いつかない時代、太陽系外の惑星というのは想像の埒外だった。それでも、ピョートルは異星人セルゲイへの愛と友情から、友の素性に関して誠実に耳を傾けた。 彼らの太陽である、怖ろしいまでに膨張した赤色巨星。 いつかはそれに飲み込まれるであろう運命の、彼らの惑星。 太陽の高熱を避けて建造された、ドーム都市。 進化の最終段階に達した彼らの知識は、彼らを肉体から脱した精神体となることを可能にした。 彼らは百年間宇宙を旅した後、百年間、受容体となった肉体に戻って眠る。 彼らの種族は有史以前から地球を訪れているが、姿が見えない精神体なので気付かれることはない。 彼らは地球(人)に干渉しないことをモットーにし、音楽と地球の自然を愛し追求する。 彼らは非干渉主義だが、ごく一部の地球人とコンタクトする。それは、音楽を通して魂の共振を感じることのできる人間だった。 「なぜ私と?」 ピョートルは、自分が異星人のコンタクトの相手に自分が選ばれたことが光栄というより不可解に思えた。 「僕が地球(ここ)に来たのは、地球時間でいうと10年位前だ。地球を風と共に旅して、世界各地の音楽を聞いた。その中でも君の作った曲に感銘を受けて、できることなら君とコンタクトしたいと思っていた」 「そ、それは……」 音楽を愛する真摯な気持ちが異星人セルゲイの言葉の端々から伝わってきて、ピョートルの心にじわじわと嬉しさがにじみ出た。 「『セルゲイ!』という君の叫び声が山々に反響し湖面に拡散して、僕の心を強く捉えた。僕は君の呼びかけに応じることを止められなかった。たとえ、君の呼びかけが他の人に向かっているとしても」 異星人セルゲイの声に一抹の淋しさを聞き取って、ピョートルは慌てて弁明した。 「それは違うよ。君は、私が呼びかけたセルゲイだ。私の心の中に長年しまわれていた、時から剥奪した永遠のセルゲイだよ!」 姿の見えない異星人を通して、ピョートルが求めてやまないセルゲイの幻影は実像となった。 それは、音楽の神として新たに生まれ出た、理想化されたセルゲイだった。
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