3、文学カフェ

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3、文学カフェ

優雅なピアノの音色が夢見心地に流れる店内で、テーブルに運ばれてきた紅茶を一口飲んだ時、ピョートルの前に法律学校時代の学友ニコライが若い婦人を伴って現れた。 「やあ、久しぶりだな、ピョートル。こちらは俺の知り合いで、カテリーナという娘さんだ。君の作品のファンで、ぜひ会って挨拶したいというんだ」 二人はピョートルの向いの席に並んで腰かけた。 「あの、私、先日オペラ『エフゲニー・オネーギン』を見たんですけど、素晴らしくて酔いしれました。特に、タチャーナの歌は心にしみました。身勝手なオネーギンに心をかき乱されるタチャーナが可哀想で」 カテリーナは興奮した口調でまるで持論を展開するように語り、ピョートルは自分の作品への賛辞に喜びつつも閉口した。 思いのたけを一気に語り終えると、カテリーナは大きく息をついた。そして「すみません。何だか一方的にお喋りしてしまって。でも先生の作品に感動したことを、お伝えしたくて」と謝ると、友人を待たせていると言ってそそくさと立ち去った。 「さて」と、二人きりになったところでニコライが仕切り直しというように咳払いをした。 「法律学校の頃以来だな。何年ぶりだろう。30年くらいになるか」 二人ともヒゲを蓄えており、学生時代のピュアな面影を失くした互いの顔を見て、年月の経過を感じ取った。 ピョートルにとって、ニコライは友人と呼べるほど親しくなかった。頭は切れるがどこか狡猾な所があるこの男に、ピョートルは心を許せなかった。それが1週間ほど前、ニコライから突然手紙が届き、会いたいという旨を伝えてきたのだった。 一体なぜという不審感を抱きつつも、ピョートルはサンクトペテルブルクの目抜き通りであるネフスキー通りに面したお気に入りのレストランを、会う場所に指定した。 「ここは、プーシキンが決闘の前に立ち寄った店だったな」 ニコライが大した感慨もない風に淡々と言った。 「うむ」 一方ピョートルは、プーシキンの名に敬意を表するように神妙に頷いた。 「そういえば、さっきカテリーナが言っていたが、君はプーシキンの『エフゲニー・オネーギン』をオペラにしたんだろう?」 プーシキンの愛好者は数多くいたが、ピョートルもその人後に落ちないほど傾倒していた。実際、ピョートルがこの文豪がよく利用する文学カフェとして名高いレストランを気に入っている理由の一つは、プーシキンのためだった。 壁に飾られた豪奢な燭台で照らされた店内は、落ち着きのある薄暗さで、高級感のある調度や絵画などの装飾品が格調を与えていた。 その静かな店内には、時おりピアノの音色が響いた。それは店内に置かれたピアノで、ピョートルも興が乗ればたまに演奏することがあった。 「さて」 とニコライが再び咳払いをし、ピョートルに向き合った。 「君に会いたいと呼び出したのは、特別な訳があってのことじゃないんだ。久しぶりに会って、色々話したいこともある。何しろ君は今や作曲家として成功を収めているしな」 と言って自分の方を見たニコライの視線に何か卑しいものを感じて、ピョートルは一瞬、嫌悪感に襲われた。 ピョートルの尻込みする様子を見て、ニコライは雰囲気をほぐそうとピョートルの作品のことや世間話などをしばらく口にした。 しかしピョートルが半ば上の空で聞いているので、カモフラージュの衣を脱ぎ捨てて本題に入った。 「君は随分長い間、ヨーロッパにいたようだな」 「ああ、最初は転地療養が目的だったが。スイス、パリ、イタリアなどを転々としていた。異国の湖や森や海は、私にとって良い薬になった」 「自然の環境がいいんだろうな」 「サンクトペテルブルクのような都会はたまに訪れるにはいいが、曲を作ったり生活したりするのは森などが周囲にあったほうがいい」 「なるほど。ところで、君はヨーロッパに行っても有名人だ。大勢の人間に名前を知られている。だからこの噂の出どころがどこの誰なのか、知るすべがない」 「噂!?」 思わせぶりなニコライの口ぶりに、ピョートルは悪い予感がした。 「そう。あくまで噂なのだが、俺にとって少々気になる要素があったものでね。その噂の中身なんだが、君が人気(ひとけ)のない場所で何者かと話をしていたというんだ。噂として流布するくらいだから、よほど奇異な様子だったのだろう」 ピョートルはサッと青ざめた。異星人セルゲイとは、ヨーロッパ放浪中も各地で接触した。それは人気のない自然の多い場所に限られていて、その静けさゆえにピョートルの声が不用意に大きくなることがあった。 異星人セルゲイの存在を他言してはならないことは、セルゲイ本人からも念を押されていたし、ピョートル自身も肝に銘じていた。 異星人のことを口外することは、彼らの地球の自然や音楽への愛を裏切ることだった。ピョートルにとっては何より、異星人セルゲイが彼に与える音楽のインスピレーションを失うという致命的な結果を意味した。 青ざめて沈黙したピョートルを見やって、ニコライは話を続けた。 「君が精神を病んでいたのは知っている。多分、その症状が現れたのだろう」 「そうだな」 ピョートルはかろうじてそう言った。 ニコライはいったん会話を中断して、運ばれてきたボルシチに心を奪われたように、食べることに集中した。 食事はせずお茶だけのピョートルは、ニコライがボルシチに没頭するのを前に次第に落ち着かない風情になり、とうとう我慢できなくなって促した。 「で、それで……」 ほとんど完食したニコライは、ゆっくり顔を上げた。 「ああ、それでだな」 ニコライが話し出した時、それに呼応するかのようにピアノ演奏が始まった。 静寂の絹のカーテンをかすかに揺らして流れてゆくピアノの音色。ピョートルはすぐにそれがベートーヴェンの「月光ソナタ」だとわかった。 曲が進むうち、ニコライもその曲が何か気付いた。 「月光ソナタか。名曲だな。この店にぴったりじゃないか。ベートーヴェンといえば、難聴に苦しんで遺書まで書いたそうだな。そこから立ち直って、名曲を数多く生み出したというのはまさに奇跡だね」 ピョートルはニコライの話の行く先に不安を感じつつ、相槌を打った。 「なあ、音が聞こえないという致命的なハンデを負いながら、『田園』という自然の音を網羅した交響曲を作曲するって、信じられないよな」 「いや、ベートーヴェンの天才の証しだろう」 「俺はこう考えるんだ。あくまで俺の趣味嗜好の観点からだが」 とニコライは前置きした。彼は法務省に勤める堅気の生活の反面、趣味としてオカルト・ホラーの小説を書き、雑誌に寄稿していた。 「ベートーヴェンは、何か人間を超えた者と交流していたのではないだろうか。その者から、音楽の霊感を得ていたのではないか。ゲーテのファウスト博士は悪魔と契約したが、楽聖ベートーヴェンなら、天使か神とだろう。 どうだい、面白い考えじゃないか?」 ピョートルは身を固くして、ニコライの話を冗談として受け流すべく無理に笑おうとした。 ニコライは勘が鋭く、侮れない人物だ。自分と異星人セルゲイとの秘密を暴こうとしているのか? 「話は変わるが、君、法律学校の頃、器量のいい下級生と親しくしていたな。何という名前だったか」 ピョートルは止めを刺されたように、胸にズキンと痛みを覚えた。 「セルゲイのことか。なぜ?」 「いや、たまたま思い出したのさ。あの頃のことを」 今すぐこの面会にピリオドを打たねばと、ピョートルは上着のポケットから懐中時計を取り出し、その時刻を正確に確認しないままニコライに告げた。 「この後用事があるので、これで失敬する」
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