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5、終楽章
大作曲家のピョートルは部屋で一人憂愁の表情を湛え、心を鎮ませようとグラスの水を飲んだ。
グラスの横には、彼に死の宣告を下す薬が置かれていた。
ピョートルの手には、つい先日初演を終えたばかりの自作の交響曲の楽譜があった。
自らが指揮した初演の客席の反応はいま一つだったが、初演とはそういうものだ。全く新しく未経験の作品に出会ったた時、たとえそれが優れて価値あるものだとしても、人は雷に打たれたように硬直する。
この交響曲は最高傑作であると同時に自分の最後の作品だということを、ピョートルは知っていた。自分の死という運命が下される前から、この曲の着想を得た時から、彼の中でそれは確実となった。
交響曲第6番、それはピョートルの人生の挽歌だった。
第一楽章 人生の啓示( Revelation of Life)
人生が幕を開けるとき、神の叡智はその全貌を束の間の啓示として垣間見せる。希望と絶望、善と悪、晴天と嵐、激しいドラマと静かな平穏、それらの対立するものが交錯しぶつかり合う。そして啓示は虹のように消え、人生が真新しい静寂のうちに始まる。
第二楽章 青春の夢( Dreams Of Youth)
夢と憧れがワルツのように繰り返される10代の頃。それはピョートルが法律学校の寄宿舎で過ごした日々。何にも縛られず現実の監視の目から逃れて、夢を思いのままにはぐくんでいた。夢はやがてもくもくと湧いてくる黒雲に覆われる。
第三楽章 勝利のマーチ(march of triumph)
バイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲、バレエ音楽、弦楽セレナードなど数多くの名作を生んだピョートルの人生を称える、勝利のマーチ。交響曲ならでは、管楽器、弦楽器、打楽器などが競うようにファンファーレを鳴り響かせる。
第四楽章 死そして無限の彼方へ (Death and Beyond the infinite)
死のテーマに支配された楽章は、沈鬱に重苦しく展開するが、その中に若き日の甘美な想いや第一楽章の轟くような啓示が混ざって、やがて天使のラッパに導かれるように天上的な静寂で幕を閉じる。
しかし、その終焉を思わせる静寂の向こうに、作曲家だけに聞こえる懐かしい囁き声があった。
「さあ、今こそ肉体の檻を抜け出して、僕と一緒に宇宙の無限へ旅立つんだ、ピョートル」
ピョートルはこれが自分の運命なのだと、もはや諦念の境地だった。人生への未練がないわけではなく悲しみを抱いていたが、セルゲイと出会ってからは死への怖れが薄らいだ。
ピョートルには同性への嗜好が抜きがたくあり、またそれを抑えることもできず、人生の中で複数の同性を愛した。
帝政ロシアでは同性愛は極刑に値するとして、厳罰に処された。その同性愛の性向がピョートルの作曲家としての名声を汚すものとされ、ついに彼は断罪されることとなったのだった。
彼に冷酷な裁きを与えたのは、法律学校の同級生数名だったという。
何年か前に文学カフェで会った時、セルゲイのことを匂わせてきたニコライの卑屈な顔つきを思い出して、ピョートルは苦々しさが毒素のように体内を巡るのを感じた。
私が死を甘受するのは、あのような卑劣な連中に屈することではない。私の作品を守るためだと、ピョートルは自らに言い聞かせた。
朦朧とした意識の中、靄を通して窓際の机の前の椅子に座った人影を、ピョートルは認めた。
ゆっくり近付くと、窓の外の11月の夕闇を背景に机の上のランプに照らされた姿は、端正な彫刻のように見えた。
窓の外の景色、部屋、机、ランプ、そこにいる少年。すべてが泣きそうになるほど懐かしい。
すでに失われたものを、愛惜の念でよみがえらせたとでもいうのだろうか。
懐かしいそれらのものは、わずかな刺激で一瞬にして消滅してしまいそうだった。
声を出すのは危険とわかっていたが、ピョートルは少年に呼びかける衝動を抑えられなかった。
「セルゲイ!」
少年はまるで自分の名が呼ばれるのを長い間石像と化して待っていたように、にわかに生気を帯びてピョートルの方を向いた。
そして笑顔を見せて、白く美しい手をピョートルにさし伸ばした。
ピョートルが無我夢中でその手を取ると、その刹那、セルゲイの姿は消えた。
しかし手を握っている感触はなくならず、ピョートルはすぐにそれが異星人セルゲイであること、また、自分自身肉体を離脱して精神だけの存在になっていることに気付いた。
「僕たちが手を取り合い心を一つに合わせれば、そこから生まれる愛の波動(バイブレーション)が宇宙にみなぎる生命を躍動させる。星たちの輝きが、僕らの芸術的な融合によって音楽になるんだ。感じるかい、ピョートル」
「ああ、セルゲイ、素晴らしいよ、君は。…いや『僕たち』だ」
ピョートルは、これこそ本望だと思った。
自らの人生を振り返り、そこに星々のように輝く曲たちを眺めやった彼は、満足げに自分の手で幕を下ろした。
異星人セルゲイのことは誰にも話さず、書き記すことも一切なかった。
ピョートルとセルゲイの秘密は、永久に封印されたのだった。
(了)
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