1、セルゲイ

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1、セルゲイ

11月はじめのロシアの夕暮れの空気は、すでに冬の冷たさと厳格さで寄宿舎の建物を包み込んでいた。 サンクスペテルブルグにある法律学校の寄宿舎の一室に、ピョートルは書き上げたばかりの歌曲の譜面をを手にし、年下の友人セルゲイと二人きりでいた。 窓際に置かれた机の前の椅子にセルゲイが座り、ピョートルは同室の生徒の椅子を借りて座っていた。その生徒は家族に不幸があってたまたま不在だった。 セルゲイは机に肘をつき、ピョートルに横顔を向けて窓の外を眺めていた。 閉めきった窓の外では羽の生えたような冷気が素早く景色に浸透していき、静寂に看取られて昼間の明るさは暗闇に浸食されていった。 窓の外の中庭にはガス灯が灯り、木立とその向こうにそびえる礼拝堂の尖塔を照らし出した。ピョートルにとってその景色は、友の横顔を縁取る背景でしかなかった。景色に海岸線のように縁取られたその横顔は、ピョートルに我知らず熱い嘆息を吐き出させた。 なんと端正で美しいのだろう……。 このまま時の演出にまかせて二人きりで暗闇に包まれて世間から隔絶されたいという思いが、ピョートルの心臓のあたりを疼かせた。しかしその後ろめたさを伴う願望を拭い去って、ピョートルは年長者らしい気遣いをもって言った。 「そろそろ灯りをつけた方がいいね」 セルゲイはちらとピョートルのほうに顔を向けた。 「そうだね」 と答え、机の上のランプを点灯した。ランプの灯りはまるで別世界を光源にしているかのように、部屋の様相を一変させた。何より、その灯りがセルゲイに特別好意を寄せるように彼を引き立てたので、ピョートルは妬みすら覚えて自分の影でセルゲイを独占したいと考えた。 セルゲイの白い肌は灯りを歓待するように受け止め、長いまつ毛は小さな魔法の森のような影を落とした。茶色ぽい髪は灯りを受けて、つややかに明るく輝いた。 そしてふっくらした唇は、森羅万象を服従させる魅惑を宿していた。 「ピョートル…」 その唇から自分の名前が発声されたとき、ピョートルはときめきが全身を巡るのを感じた。 「それが君が作曲した歌曲の譜面なの?」 「あ、これ? そうなんだ」 ピョートルは自分がこの部屋へ来た目的を忘れかけていた。それは彼が初めて作曲した歌曲だった。 「私の守護神 私の天使 私の友よ」という題の歌曲を、ピョートルは歌って聞かせた。 「君は僕に内気な霊感と素敵な痛みをくれた。そして静かな夢をくれたのだ」 情熱的な歌詞と哀調を帯びたメロディは、ピョートルのセルゲイへの想いを赤裸々に表現していた。少年らしい純粋な感性を溶かし込んだ歌曲には、大作曲家の天才の萌芽が感じられた。 ピョートルがドイツ人のピアニストに師事し、聖歌隊ではソロで歌うこともあることを、セルゲイは知っていた。ピョートルは彼にとって尊敬すべき先輩であり、誇らしい友人であった。しかし、ピョートルの悲劇をも厭わない一途な愛をすべて受け止める自信は彼にはなかった。 額にかかる前髪が生み出す陰影の中に、セルゲイのためらいと不安が潜んでいた。 「いい曲だね。すごくいいよ。」 内心の当惑とは裏腹に、セルゲイはピョートルの歌曲を絶賛した。誰の賛辞よりも喜ばしい友の言葉に、ピョートルの頬には赤味がさした。 「気に入ってもらえて嬉しいよ、セルゲイ。実はこの歌曲、君に捧げようと思っているんだ」 「僕に!?」 それはセルゲイにとって嬉しいサプライズだった。一瞬、友の愛情の重さへの不安を、才能あふれた先輩から歌曲を贈られた喜びが上回った。セルゲイの白皙の頬は紅潮し、驚きと感謝で見開かれた青い目は、さざ波に洗われるように潤んでいた。 ピョートルの身内から、何かの発作のように愛しいという感情がこみ上げた。それは他の何にも代えがたい、そして決して譲れない貴重な感情だった。 ピョートルは思わず立ち上がってセルゲイに近寄り、机の上に置かれたその白く華奢な手を握り締めた。その手に全身の熱が集中し、そこから堰を切るように愛しさがなだれ込んだ。 ピョートルは、哀願と威嚇とがないまぜになった眼差しでセルゲイの瞳を射止めた。 その瞬間、ふたりだけの世界の辺境で雷鳴が轟き、視界は幻影の中に溶けていき、時間は管理する者が失せたように無秩序に陥った。 ごうごうと渦を巻く時間に小舟のように巻き込まれ、彼は意識を失った。
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