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記憶力の問題 第二話
彼がこの日に受ける必要のある二つの試験は、ともに午前中にあるため、午後の空いた時間は、なにも大学の敷地内にいる必要はなく、一夜漬けで疲れ果てた戦士にとっては、貴重な休み時間となった。講堂から足取り重く出てきた彼の表情には『いやいや、今回の大勝負も何とか切り抜けてやった』という大勝利の余裕が伺えたのだ。食堂でいつも通りの安い定食メニューを平らげて、とりあえずの飢えを凌ぐと、一目散に寮の部屋へと戻ってきた。朝、目が覚めた瞬間から、すでに妙な胸騒ぎがしていた。自室の扉には、出ていくときと同様に、しっかりと鍵がかかっていた。この点は特に問題はない。ドアが開くと同時に内部から流れ出る空気の流れを伺いながら、慎重に室内に踏み込んでみた。彼は狭い玄関から一歩も動くことなく、最初に室内の方々を一通り見回してみた。本棚の上の花瓶も、壁に立て掛けてあるクリーナーも、テーブルの上の中古のノートパソコンも、本棚の安い文庫の並びも、毛布の下に転がっているトイレットペーパーの傾きにおいても、少しも動かされたような形跡はなかった。床の上に散らばっている数百を数える雑誌類も、一般的な記憶力の持ち主に、この光景を見せれば、『どれも、動かされたような形跡はない』と答えるであろう。
コルガン青年は、次にその鋭い視線を出発前にわざわざ作成しておいた、部屋の中央にどっしりと佇む書籍の塔に向けた。もちろん、在野の天才の脳裏をかすめた、ある種の閃きにおいては、ここがもっとも重要なポイントなのであろう。彼は玄関からいまだに一歩も動かず、積み上がったその山に触ろうともしなかった。迫りくる期限に焦るような様子も、不安げな様子も見せずに、ただ、10分以上にわたり、その風変わりな塔を見つめていた。彼は上段から下段へと次第に視線を移していき、身体の角度を少し変えて、それぞれの背表紙と小口の具合を丁寧に確認していった。けれども、あるところで、はたと、その眼球運動を止めた。そして、少し、ほんの十数秒何かを考え、やがて、ゆっくりとポケットの携帯電話を取り出した。彼は母国語を喋れるくらいの米国の人間ならば、誰でも知っているはずの公的機関への連絡番号を、ゆっくりと自然な動きで入力(ダイヤル)した。
それから約二時間後、コルガン青年は大学の敷地から、徒歩十分程度の距離にある、小さな喫茶店を訪れていた。試験に疲れた彼を慰めるべく、ここまで連れ出したのは、ロンドという名の、ハイスクール時代からの旧友であった。彼はその才覚において、コルガン青年ほどの素養は持ち合わせていなかったが、凡人以上の努力や向上心は当然の如く有していた。友人がわざわざ会いたがったのは、普段の授業にはほとんど姿を見せない、友人コルガンの今回の試験の出来に関しての成績を、ひどく心配していたためである。
賑やかな店舗の中には、一般の来客に加えて、彼らと同じく、試験終わりの学生の姿もちらほらと見受けられた。各々、試験の出来不出来のことで一喜一憂しているわけだが、仲間同士で打ち解け合う、こういう時に自分の成果や心配ごとを、あえて大声で話しているのは、大抵出来の悪い生徒の方である。二人はまずセイロンティーを頼み、この店が誇る、美人ウェイトレスがお手製のクッキーを売り込みにくると、コルガン氏は、「いや、クッキーに含まれる砂糖というものは、未来を担う青年の発育に、少なからず悪影響を及ぼすから」という理由で遠慮した。しかし、その実、本当にこの菓子を食べられない理由としては、持参した財布の内部事情にあるらしかった。ロンド青年はそれがいたく理解できているから、自分が注文した、シナモンクッキーの皿を、話し相手の手元にまで、そっと押してやった。
「いや、しかし、ロシア文学の試験は難問揃いだったね。学生全員に単位を与えるつもりなんて、まるで感じられなかったよ。教授の性格の悪さが浮き彫りだったね。普段、授業にはなかなか顔を見せない君にとっては、あれは相当厳しかったのではないかい?」
ロンド氏は紅茶がぬるくなってしまう前に、カップを何度も持ち上げ、熱くなった舌を乾かしながら、ある程度飲み干してしまうと、そのように話を切り出した。
「いや、大したことはないね。あの教授のことだから、もっと、胸糞が悪くなって、人格破綻にまで陥るような問題に巡り合えると期待していたんだが。まあ、自己採点の結果では、45点は堅いだろうね。こんな点数じゃ、学内にはびこるエリート諸君には、とても敵うまいが、無事に進級する分には十分といえるだろう」
コルガン青年の態度は至って平静であり、学生生活の節目の重大イベントを、不遜な一夜漬けで解決してみせた直後とは、到底思えないような余裕であった。ただ、時折、目の前の灰皿をコンコンコンと人差し指で突くような素振りを見せていた。ロンド氏は自分としては、明らかに70点を悠々オーバーする成績を収めたであろう、という憶測を持っていたが、それは胸のうちにだけ収めて、この場は取りあえず、コルガン氏の並外れた瞬発力に対して敬意を表するものであった。
「しかし、短編作家チェーホフの千を超える作品群を年代別に並べよ、などという、受験者に対する嫌がらせとしか思えないような問題もあったわけだが、さすがに君でも、あれには面食らったのではないかい?」
「いや、実を言うとね、あの問題こそ、我が軍の勝利をこの手元へとぐっと引き寄せた要因なんだよ。あの教授の嫌らしい思考回路であれば、おそらく、あの問題は然るべくして切り出されるだろうと、完全に山を張っていたからね。まあ、これは頭の良し悪しではないよ。言うまでもなく、記憶力の問題だね」
他の生徒の百分の一の時間も、勉学には向けていないにも関わらず、コルガン氏はまったく悪びれずにそう述べた。しかし、その言葉を発した際、なぜか、目の前の灰皿をつかむと、それを力いっぱい机に叩きつけた。乾いた鋭い音が店内に響き渡り、従業員の何名かが戸惑いを見せ、トラブルの気配を感じて、こちらを振り返った。彼の思考は何かを思い出すたびに、次第に暗いほうへと向かっていたのである。
「人生を揺るがしかねない苦難を切り抜けたにしては、少し、気が立っているんじゃないかい。何があったんだい?」
「それがね、試験を受けている間に、寮の部屋に泥棒に入られちまってね。まあ、かなり前から、嫌な予感はあったんだが……」
「それは大変なことだ。学生寮のスタッフや、地元の警察には、もう連絡したのかい?」
気優しい友人のロンド氏は、このプライベートな問題を、店内でくつろいでいる他のお客には、決して知られないように、少し顔を近づけて、なるべく声を伏せながら尋ねた。
「ああ、もちろん、盗難の被害を確認してから、十分も経たないうちに連絡したよ。というかね、こちらの話す順番が、いささか悪かったようだけれど、すでに犯人は捕まえてやったんだ。自分の手でね、すぐにとっ捕まえてやって、そのまま警察に引き渡してやったんだよ。まったく……、今、思い出しても、胸糞の悪い出来事だけどね」
コルガン氏は今になっても、ふつふつと込み上げてくる怒りを何とか抑えようと、鉄製の灰皿を再び持ち上げて、顔の前まで持ち上げて、何度かこねくり回してみて、やがて、いくらか気が済んだように、それを裏返しにして、テーブルの上に戻した。普通の視点で考えてみて、解けそうにない問題は、取り敢えず裏返しにしてみろ。それが彼の幼い頃からの持論である。
「さっきから、不機嫌な様子でいるのは良くわかるよ。誰だって、自分の部屋に無断で入られるのは嫌なものだ。何かを盗られてしまったのかも、という危機感の前に、自己の生活を丸ごとのぞき見されたような気になるからね」
ロンド氏は友人の怒りに対して、心からの賛意を示した。ただ、この段階では、この窃盗事件の根深さには、まだ気がついていなかった。こういう異例ともいえる事態にあっては、彼もまた一般の学生と同じく、極めてありきたりの発想しか出来なかったわけだ。つまり、コルガン青年の一室に、試験のための外出の合間を狙って、おそらくは外部からの物取り強盗が、ベランダの排水管をよじ登って、窓ガラスを巧妙に破壊した後、内部に侵入して、部屋を思う存分に荒らしてやり、目についた貴重品に次々と手をつけては持参のバッグに手際よく放り込み、やがて、分捕ってやった戦利品に満足して帰っていったと、まあ、その程度の想像を働かせていたわけである。正答を知る前に、自分で創り上げただけの想像とはいえ、ロンド氏がいささか不愉快になったことは確かである。誰だって、自分がそんな横暴な一件の被害者になるなんて、想像すらしたくはないであろう。しかし、先ほどの友人の証言が本当であるなら、犯人はすでに捕まっているという。もしも、それが真実であれば、本件の被害者としては、少なからぬ慰めにはなるはずだ。
「それで……、犯人は単独犯だったわけかい? 白昼堂々、相当なクソ度胸だな……。それにしても、たしか……、学生寮の入り口には、屈強な警備員が三名も雇われて常駐しているっていうのに……。君の部屋まで入り込んだ泥棒の奴は、よっぽど上手く滑り込んだんだな」
「給料はもらってるだろうが、食うや食わずの安月給。勤務中も緊張感ゼロで、時おりコーラを飲んで葉巻を吸いながら、昨日のヤンキースの勝敗のことで笑い話して、たまに通りがかる美人OL目当てで突っ立ってるだけの無責任警備員なんて、何人いたってクソの役にも立ちゃしない。あいつらはそもそもこの事件には関係ないがね。犯人はさ、隣室のエドガーだよ。あいつが白昼堂々うちの部屋に乗り込んできやがったんだ。まったく、とんでもない野郎だ」
コルガン氏は次第に湧いてきた怒りを懸命に抑えつつ、再び、そのような重要なる証言をした。この発言に対しては、この場所が市井の住民も頻繁に訪れる公共の場であることを、いかに重視しつつこの会話に臨んでいたロンド氏であっても、周囲にまで轟く驚きの大声を発せざるを得なかったのである。
「なんだって! あのエドガーが、君の部屋に盗みに入っただって? まさか、そんな、あいつは十年来のビートルズファンだぞ! それに、あの熱心なカトリックが!」
目の前の聞き手が、後方にふんぞり返って仰天している様を見ても、語り手のコルガン青年は、まるで動じることもなく、カップの底に最後まで残されていた、紅茶の数滴を惜しむように啜っていた。貧乏学生の身には、久しぶりに味わうことができた砂糖の甘味であった。
「君は本当に隣室の友人を警察に突き出したのかい? ならば、あいつが犯人だという証拠を示したわけだね?」
「自分の命を繋いでいくために貯め込んでいた金を、容赦もなしに盗んでいく野郎を特定するのに証拠なんて必要ないだろうよ。そういう後付けは、すべて警察や雇われの私立探偵の仕事だろ。昔からどんな探偵小説にも、そう記してあるじゃないか。「どれどれ、では、一人ずつ、アリバイを聞かせてもらうよ……」指紋でも入室経路でも、廃れたはずの親戚関係でも、勝手に調査してみろってんだ。物臭だらけの労働者がひしめく、この国にあって、その中でも一番図々しい組織を動かすために、この州の年間予算がさ、いったい、どれだけ割かれていると思ってるんだ。行き場のない浮浪者や酔っ払いやギャンブラーを引っ張っていくだけじゃ、治安のためにはならんだろ。たまには被害者を心底満足させるような、いい仕事をしてもらわないと……」
「しかし……、僕にはまだ信じられないがね。君は今、金を盗られたと言ったね? じゃあ、奴は友人であるはずの君の部屋に、その留守を狙ってまで、金を盗む目的で忍び込んだっていうのかい? 何でまた、そんなくだらない行為を……」
コルガン青年は、その質問に対して理路整然とした答えを用意することには、若干躊躇した。彼の立場からしても、この多少入り組んだ一件については、きちんとした話す順序というものがあるらしかった。
「こんな僕だって、一日中ロックを流して、本を読みふけって過ごせるわけじゃない。ミイラになる二十分前には、一応は何かしらの食物を口に入れなきゃ、やっていけないからね。栄養が向こうから寄ってくるわけじゃない。南米アマゾンの食虫植物じゃないんだからさ……。実は、月に一度、カリフォルニアの田舎町にいる両親から仕送りを受けているのさ。今朝、試験に出向く際に、送られてきたばかりの封筒の中身を入念にチェックしたんだ。きっかり400ドル入っていた。これは間違いない。視力の問題じゃなく、金に飢えているからね。簡単にいうと、試験から戻ってみたら、その封筒から、100ドル札が一枚消えていたのさ」
ロンド青年は、その多少不可解とも思える話の内容を慎重に吟味しているのか、顎に指をあてて、しばし、考え込んでいた。彼は友人を窃盗犯に貶めないための、自分なりの推論を立てようと、何度かテーブルを指で軽く叩いていた。いったい、それを誰に見せたいというのか、髪をど派手な色に染めた数名の若者が、向こうの通りにまで響くような大声で何事かを喚き散らし、互いの身体に腕を絡ませ、肩を寄せ合いながら店の外へと出て行った。あんな無作法な連中が、テーブルクロスをまっさらなまま食事を終えたり、レジスタッフに要求された通りの勘定をきちんと支払うものだろうか? という単純な疑念が脳裏をよぎった。一番最後に出て行った茶髪のギャルの「fussyだからさあ!」というキンキン声が、やたらと気に障って印象に残り、しばしの間、思考が中断されることになった。
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