記憶力の問題 第三話(完結)

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記憶力の問題 第三話(完結)

「なるほど、そういうことね……。まあ、思い違いの可能性はあるにせよ、自分の部屋の中から、封筒に入れてきっちり保管しておいたはずの紙幣が、一枚だけ消えてしまったのではないかと、端的にそう思い違いをしたわけだね。それで……、試験に出かける前に、ドアには鍵はかけたんだろうか? うん、わかった。きちんと、確認をしたわけだね。すると、第三者が部屋に侵入したとすると、窓から入ったというわけか……。どんなに単純思考で不器用な人間であっても、部屋の内部に財宝が眠っているかも判明しないうちに、壁の外から工業用ドリルで穴を空け始めたりはしないだろうからね……。では、今一度、聞くけれど、我が友人エドガーが、その一枚の紙幣を奪った犯人だと、君が推察する理由はなんだい?」  その返事は簡単には戻ってこなかった。コルガン青年はひどく機嫌を害していて友人の適切な指摘に、それほど注意を払ってはいない様子だった。彼はこの事件はすでにあらかた解決済みだと思っていたし、自分の想定通りの犯行だとすると、これは裏切りなどという手厳しい言葉すら完全に超越した、人権侵害にさえあたる凶悪なものだと思っていた。面と向かって座る、唯一の聴衆であるロンド氏は、これまである程度の期間付き合ってきた限りでは、信用のおける友人のようである。彼になら、真相の詳細を話しても良いかなと思い始めていた。ただ、同じように信用していたはずのエドガーは、彼のことをきっちりと裏切って、大事な紙幣を堂々と盗んでいったのだ……。彼は沈鬱な表情を浮かべたまま、静かに、しかし、淡々と次のようなことを述べた。 「問題はさ、実家から送られてきた、その現金書留封筒のことなんだよ。まあ、奴が近日中に100%確実に忍び込んで来る、という自信はなかったけど、大金を手にした当初から、これを狙っている者がいるような、嫌な予感は確かにあったので、あらかじめ、その封筒の上に、本を重ねておいたわけだよ……」 「君は試験のために外出する際、紙幣の入った封筒の上に本を積んでから、部屋を出ていったってことだね?」 「そうなんだ、おそらく、まあ、140冊だと思う」  ロンド氏はコルガンのその言葉に反応して、パン!と強く手を叩いてみせた。解決へと繋がっていく細い糸が、ようやく、自分の目にも見え始めたと、そう感じたのだった。 「いやはや、やっと、分かってきたよ。侵入者が床の上に置かれている、紙幣の入った封筒を探るためには、その上に大量に積まれている本や雑誌類を、一度脇にどかさなければならないわけだ。つまり、君が試験に出かけている間に、何らかの目的で侵入者があったために、部屋に戻ってきたとき、本の山がすっかり崩されていたってことだね? だから、それが地震や地縛霊や天井に住んでいるネズミの仕業でなければ、誰かが本を崩して封筒を拾ったことになるね」  コルガン青年は、その雑な発想による、余りにもまっとうすぎる判断に対して、相当に失望したようで、顔を曇らせたまま、首を何度も横に振った。 「いや、違うんだよ。積み上げられていた本のたぐいは、出たときとまったく同じように部屋の中央に積み上げられていたんだ。うん、わかりやすく言い換えれば、僕自身が二度目に見たときも、ちょっと見ただけでは、以前と見分けがつかないくらいに、きれいに積み直されていたと言うべきか」  ロンド氏は友人の今の発言の意図が分からず、しばしの沈黙に落ちることになった。思考状態はかなりの混乱と表現してもよかった。その二人の会話の合間に、窓際の席に座り込んで、この地区最安値の一杯250円のホットコーヒーで、二時間以上も粘り込んでいた、黒縁の分厚い眼鏡をかけた文学女子が、ようやく重い腰を上げると、勘定を支払うためにレジの方向へ向かっていくのが見えた。おそらくは、名探偵がようやく実行犯の名を告げたのかもしれない。彼女が無事に支払いを終えて出て行くと、この店内には窃盗議論をしている二人以外に客はいなくなった。あれから十分という時間が経過しても、ロンド氏はこれから何を言うべきか考え込んでいた。店内の空気は正答を求めて静まり返っていた。これ以上長く息を止めていたら、ベテランの漁師でも死んでしまうのではないかと思えるほど、慎重に考えた後、ロンド氏は独自の見解を述べた。 「ちょっと、いいかい? 先ほどの君の発言から、僕が導き出した、単純な結論というのを、まずは聞いて欲しい。オッカムを持ち出すまでもなく、難解な事件においては、簡潔な推論ほど真実に近いということもいえると思う。まず、君は学校の試験に出かける前に、封筒の上に用心のために本の山を築いた。これは、誰かが部屋に侵入した際に、これに触れていないかを見張るためだよね? そして、帰ってみたら、ドアの鍵には何者かが侵入した形跡はなく、本の山に関しても崩されてはいなかった。君の言葉を借りると『ほとんど、きれいに積み直されていた』。そして、紙幣が一枚だけ消え失せたように感じられる。今一度説明してみると、つまりは、こういうことだよね? でも、僕に言わせると、この状況から導き出される結論は、君とは真逆なんだ。学校に出かける前と、ほとんど同じように本は積まれていた。だから、誰も紙幣の入った封筒には触れていない。つまり、紙幣が一枚消えたと感じられたのは、完全に君の勘違いか、もしくは、疲労からくる幻覚である。これでどうだい?」  ロンド氏は自論に絶対的な自信を持っていて、確実な同意が得られると感じて、少し誇らしげな表情さえ浮かべながら、話し相手からの返事を待っていた。しかし、当のコルガン青年はというと、すでにこの話題には大して興味を見出せなくなっていた。なぜなら、すでに窃盗犯本人は警察の手に引き渡されているからである。彼はお留守番に退屈した幼児が、友達から教えてもらったばかりの占い遊びに興じるかのように、右手の人差し指で、テーブルの上の太い木目を何度もなぞり、目には見えない何らかの絵を描いていた。 「いいかい、部屋に忍び込んだ元友人は、雑誌の山を崩して、底にあった封筒から紙幣を一枚抜き去った後、本と雑誌をきれいに積み直したけれど、僕は『完璧に』とは表現してないよ。奴はね、紙幣の上に本の山を築くという、こちらの意図自体は見破ったわけだが、金を盗んだ後にまったく同じ塔を作ることは出来なかったんだ」 「こちらの聞き違いだったかもしれないけれど、ついさっき、君は出がけに140冊もの本を積んだと語っていたよね。そして、帰宅後の確認においても、『きれいに積み直してあった』と証言したよね。仮に侵入者が紙幣の入った封筒を奪うために、本の塔をいったん床の上に崩したと仮定しても、なぜ、肉眼できちんと積まれているように見える本が、自分のいぬ間に一度は崩された物だと断定できるんだい? まさか、積まれた本の並び順が、出かける前と後で違っていたと、そんなことを言っているのかい? それこそ、無茶な理屈だと思えるが……」  ロンド氏は相手に向けて語りながらも、自身のやや踏み込んだ推論に恐れをなしたようで、その表情は若干青ざめた。目の前のこの友人が、試験前の希少な時間を利用して積んだと言い張る、140冊もの本の並び順を、出掛けの僅かな時間において、そのすべて覚えてしまったとしたら……、これは尊敬や信望といった概念を通り越して、恐るべき才能の持ち主と表現せねばならないからである。 「お二人様、紅茶のお替りはいかがでしょうか?」  奥から、ウエイトレスのあどけない声が響いてきた。二人は眉間にシワを寄せたままで、その麗しい声には何の反応も示すことはなかった。紅茶のポッドに、まだ余裕があったための、善意の問いかけであったのかもしれないし、『いつまで、この店にいる気だ。追加の注文をしないのなら、さっさと帰ってくれ』の意思表示かもしれないが、二人は彼女の意志については、どこまで考えたのだろうか。 「いや、君はこの話の見方を根本的に間違っているよ。奴は部屋に忍び込んで、金を盗むという目的を達成するために本の山を崩して、自分勝手に紙幣を奪っていった後、床に撒き散らした本の群れを、元の通りに積もうとしたんだ。それは、侵入者があったという痕跡を消すためだよね。そして、『元通りの順番に並べ直した』のさ。上から12番目の『ロンドン周遊記』の下には『トマトのおいしい料理法』が正確に並んでいたし、29番目の『死海文書探究記』の下には『本当は怖い赤ずきんちゃん』が、65番目の『大いなる遺産』の下には『フレーゲ著作集』が順番通りに、きちんと乗せられていた。こちらが出掛けに覚えていった通りだ。順番については申し分ない。まあ、あいつも、記憶力だけはそれなりにあるからね。僕ほどではないけれど……」  コルガン氏のその見解に対して、それを聞いていたロンド氏は、さすがに動揺を隠せなかった。彼は机を一度ドンと叩いて、身を前に乗り出した。 「それは、犯人が140冊もの本を崩す前とまったく同じに並べることができたからこそ、隣人の中では比較的記憶力のいいエドガーが犯人だっていうことかい? いくらなんでも、それは言い過ぎだろう。だいたい、隣室のあいつが、厳重に鍵のかかった君の部屋の内部に、どう入り込んだんだい? 窓ガラスに傷はついていた? それとも、天井から縄を伝って降りてきたのかい? 壁は無事だったんだろ? 彼の犯行とするには、物的証拠が無さすぎるよ……」 「物的証拠なんてものはさ、今さらどうでもいいんだよ。それは後からでも、警察が必死に探すだろうさ。あいつは、試験の前日、僕の部屋に訪ねてきたんだよ。なにか思い詰めたような顔をしてね。『頼む、100ドルでいいからさ、何とか融通してくれ……。このままじゃ、やばいんだ……、授業料にあてるべく、たちの悪い貸金業者からローンで借りた金の返済日が明日なんだ……。いや、君に断られたら、もう終わりだ。奴らは一日だって待ってくれない。実は、軽い気持ちで、マフィア系の業者から借りてしまったんだ……。明日、耳を揃えて支払えなかったら、ナイフで目玉をくり抜かれるかもしれない……』と、まあ、こういう感じに迫ってきたんだ。もちろん、僕は断固として拒絶したよ。自分が食っていく分で精一杯だ。自分のケツは自分で拭けって言ってやったよ」  「それで……? その後の展開は……?」  こういった刑事事件関連の議論を始める場合、そういった重要な証言はなるべく早めに出しておくのがフェアではなかったかと思いながら、ロンド氏は恐る恐るそう尋ねた。 「奴は突然顔を真っ赤にして、こう叫んだんだ。 『旧知の友が窮地に陥っているのに、何でそんな冷酷な態度を取れるんだ! いいか、僕はこの問題に学生生命を賭けている。明日までに100ドルを揃えられなければ身の破滅だ! この近隣に住む生徒で、そんな大金を持っているのは、君だけなんだ。いいか、そこにしまってある100ドルは、近いうちに必ず奪ってみせる。せいぜい、玄関と窓には頑丈に鍵をかけておくんだな!』  そう吐き捨てて、乱暴にドアを閉めて帰っていったんだよ。開き直りも、あそこまでいくとかえって気持ちがいい。とんでもない野郎だろ? あれで、友人とかいう単語がよく使えるなと、正直思ったがね」 「なるほど、そういうことがあったのか……。では、君が無くしたと言い張る100ドルと、エドガーの奴が前日の脅迫で要求した100ドルとの整合性は取れたわけだ……。もし、これが寮内の生徒の犯行ではなく、外部の暴漢の犯行だとしたら、封筒から100ドルを盗るだけでは絶対に済まないよね。封筒ごと全部持っていかれるに決まってる。しかし、僕はまだ完全には納得できないよ。いくら追い詰められていたからって、あいつが本当に友人を裏切ったりするもんだろうか……? あれだけ、面倒見のいい男が……」 「人間の心なんてものを、一方では、宝石のようにありがたがる人もいるけれど、実際は薄っぺらいものでさ、金欲と肉欲にはどうあがいても、まったく逆らえないのさ。金の行方が原因で、親子や兄弟の縁がぷっつりと切られるなんて事例は、いつの時代にも当たり前のように転がっているだろ。『カラマーゾフの兄弟』なんて、くっそ長い教本を持ち出すまでもなく、事前に犯行を予告するような奴なんてのは、ほぼ、確実に実行に移すし、まあ、往々にして、それによって身を滅ぼすわけだね」 「でも、それだけでは……、絶対にあいつだと、あいつ以外にはいないと、断じきれるのだろうか……?」  ロダン青年は複雑な心中でもがいていた。今となっては、長年の友人であるエドガーが、本当に犯罪に手を染めてしまったような気もするし、すべては眼前のコルガン氏の空想に過ぎない気もした。 『本当に積まれた本の下にあった100ドル札は無くなったのだろうか?』  何度も同じ問いかけが頭の中を行き過ぎていった。大量の本の底に埋められていた白い封筒から、お札が一枚だけ減ったというコルガン青年の主張が、もし勘違いであるならば、この一件は一番自然に片付くような気がした。しかし、この疑惑の一件に一番の信憑性をもたらしているのは、彼の記憶力などよりも、その苦悶の表情であった。普段から何事にも楽観的なコルガン青年が、友人の裏切りにより、それ相応の辛苦を味わっているとすれば、それこそ、どんなことよりも重点を置かねばならない問題であった。 「本当は、どうだったんだろうか……?」  ロダン氏はついにその言葉を発してから、目を伏せた。ギブアップのサインであった。客が減ってしまい、時間を持て余したウエイトレスは、商売っ気を出して、笑顔で近づいてきた。二人がどういった種の会話をしているかなど、まったく気にしている様子はなく、慣れた手つきで、ずっと空のままだったカップに紅茶を注いでいった。コルガン氏はロダン青年の混迷極まった心中を察して、少し顔を上げて、満足そうに二度頷いた。 「40分ほど前に警察から連絡があったよ。エドガーが僕の部屋から金を奪ったことを自供したとさ」  ロダン氏はその言葉を聞いて、なぜだか、反駁よりも、さもありなんという気持ちが強かった。彼は照れ笑いを浮かべて、右手を後頭部にまわして、何度か髪の毛をかいた。 『なぜ、そんなことをしたんだろうねえ?』 などと、鎌をかけてみたい気もしたが、解決が先に来た以上、言葉はすでに不要な気もした。ただ、先ほどの記憶の問題。あの、「140冊の書籍をきちんと並べ直したはずのエドガーが、なぜ犯行を疑われたのか」については、きちんとした真相を語って欲しい気もした。ただ、あれほどまでに、この一件をコルガン青年の気の迷いだと主張してきたあとで、それをあえて聞き出そうとするのは気恥ずかしい気もした。でも、心の清い友人は、気が向けば話してくれるかもしれない。そこで、しばらく黙ってみることにした。 「事前に予告を受けていた僕としては、封筒の中身を荒らされるとすれば、エドガーが侵入した場合だと分かっていたわけだから、140冊の本で罠を仕掛けておくことは容易だったんだよ。140冊くらいの量であれば、奴が順序を正確に記憶して、封筒から紙幣を奪った後で、もう一度、正確に並べなおすことは充分できると思っていたよ」  紅茶が空いたポッドを受け取った喫茶店の店主が、中の汚れをきれいに洗い流す、爽やかな水の音が聞こえてきた。どこからか、大きなアブが飛んできて、二人の鼻先を高速で通過していった。ロダン氏は反射的に後ろに飛び退いたが、コルガン氏は冷静に前を見据えたままで、びくともしなかった。 「僕は紙幣の入った封筒から上に、順に数えて三冊目の『ユートピア』だけは、わざと裏返しにして乗せたんだ。でも、奴はおそらくそれを覚えていなかった。奴は表紙を上にして重ねてしまった。それだけさ、大きな理由ではないんだ。それだけなんだ」  ロダン氏はたった今、真相を聞いたはずなのに、なぜか釈然とはしなかった。この難問に対する適切な回答にはなっていない気がした。彼は無言のまま、上半身をぐっと前に出すことによって、さらなる説明を要求した。表か裏かなんて、それこそ、思い違いで片づけられる気がしたからだ。 「もちろん、それで良かったんだ。あの多くの本の並びを、完璧に覚えられるのならば、100ドル札一枚くらい、奴にくれてやってもいいと思ったわけさ。でも、おそらくはそれは出来ないだろう、ということも事前に理解していた。だから、うん、何というか……、せっかく、『ユートピア』をひっくり返して、表にしてしまったのなら、焦らずに、ちゃんと表紙を見回せとは思ったけどね。そこにこちらの意思がきちんと記してあるんだから……」  ロダン氏はさらに不可解に陥り、机に肘をつき、右手で顎を支え、さらなる疑問を示して、解明につながり得る続きの言葉を待っていた。コルガン氏は、長い時間の経過により、すっかり平静を取り戻し、落ち着いた態度のもとで、最後の言葉を付け加えた。 「こんな物騒な事件が起こる、遥か昔から……、もっと言えば、こんな不毛な付き合いが始まる前から、ちゃんとそこには書いておいたんだ」 『人から金を借りるときには、一声かけてから行け』とね。
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