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第九話
曉炎は弟である紅焔を暗殺しようとしたことが何度かあるが、毎回の如く煌威と紅焔以外には尻尾を掴ませない頭のキレる男だ。
そんな曉炎が、ここまで取り乱した様は煌威ですら一度として見たことがなく、ただただ驚いていた。
曉炎の眼差しは暗く、どす黒い感情に染まっているのがありありと見える。
「煌威、こちらに来い」
視線は煌威に置きながら、曉炎が手を差し伸べてきた。
――わたしに、手を取れと言うのか。
煌威は不快感に眉を寄せた。不敬罪で首を撥ねられたいのかと思ってしまう。
曉炎の態度は、皇族に対する礼を欠くどころか、一般的に見ても命令口調で酷いものだ。
思わず、唇が引き攣る。
「曉炎、何を勘違いしているのか知らないが……」
お前のそれこそが不敬だと、煌威は口にしようとして、
「お前のことだ。帝国を手に入れる為に俺が裏切った、とでも思ったんだろう」
突然、話の核心をついてきた曉炎に目を瞬いた。
いや、確かに煌威も後でその話をするつもりでいたが、こうもあっさり曉炎本人から話をふられると面食らう。
というか、その口ぶりでは裏切ったわけではないと言いたいように見えるのが、煌威には腑に落ちなかった。
むしろ、それ以外に何があるのか。そう思ったことが、つい顔に出てしまう。
「違う」
対して、間髪入れず返されて続いた曉炎の言葉は、煌威の範疇を超えていた。
「お前だ。俺が欲しいのはお前だ、煌威」
「……?」
曉炎が何を言っているのか、煌威には意味が分からず、とっさに傍にいた紅焔を見上げれば、渋い顔をしている。
これで察しないほうが無理というものだった。
「ずっと、想っていた。お前を慕っていた。煌威……気高く、美しい煌威……次期皇帝を約束された、煌威に触れたかった。俺に触れて欲しかった」
臣下に慕われるのは皇太子として、次期皇帝としてそれほど悪いことではない。だが、どう考えても曉炎のそれは、臣下の域を超えている。
それはどういう意味なのかと問うほど、煌威は世間知らずでも子供でもなかった。
「だが、分かっている。俺は何十人もいる臣下の一人で、煌威とは身分も何もかもが違う。……分かっている。そんな高望みはしない」
曉炎は静かに語った。自分がいかに煌威を想い、焦がれていたかを。
切々と語る曉炎は、悪漢の顔つきから幽鬼のようなそれになっていた。それがまた不気味に映ることを、本人は気づいていない。
「傍にいられるだけでよかった。一番傍で、一番の臣下として、煌威の顔を見られればよかった。煌威がたまに、一番の臣下としてでも、俺を見てくれるだけでよかった……。それが」
「……ッ!」
ぞわり、と。
煌威の背筋を、何とも言い難いものが舐め上げる。
幽鬼のような顔で、恋文を読む娘のような眼をしていた男が、瞳孔の開いた、飢えた獣の眼をした男に変わったのだ。
執念と怨念を、感じる眼だった。
雲行きが変わり、煌威と紅焔、そして曉炎の間に不穏な空気が流れ始める。
「お前は! 紅焔を知ったときから、変わった!」
「殿下! お下がりください!」
一歩、曉炎が脚を出した瞬間、紅焔が腰に帯刀していた剣を抜いた。
しかし紅焔のその剣が見えないのか、曉炎は構わずまた一歩と煌威に近づく。
「あれほど一緒にいた俺を差し置いて! 紅焔と居るようになった! 何かあると紅焔を呼んだ! 何でも紅焔に任せるようになった! 常に紅焔を傍に置いた! 紅焔を、紅焔と、紅焔が……っ紅焔紅焔紅焔紅焔紅焔紅焔紅焔紅焔紅焔!!」
「……寄るな」
煌威を背に庇いながら、紅焔が低く警告した。
紅焔、紅焔と憎々しげに繰り返す曉炎に、さすがに紅焔の顔も曇る。
「紅焔は俺の弟だ! 皇弟の三男だ! 俺より身分が低い、俺より煌威から遠かった男が! 俺より煌威に気をかけられている! 俺より煌威に、愛おしげな眼で見られている!! 我慢できるか!!」
「寄るな」
目の前にいる紅焔がいかに顔を顰めて制止をかけようと、曉炎の脚と言葉は止まらなかった。
「お前が……っ、お前が悪いんだ! 紅焔ばかり見て……俺を見ないから!」
「寄るな、兄上」
もう曉炎の眼には、煌威以外映っていないのではないかと思うほどの変貌ぶりだったが、兄上と呼ばれたせいか――。曉炎の視線が、そのときやっと紅焔へと向けられた。
怨念で爛々と輝いていた眼が、苦渋を含めたものに変わる。
「紅焔を妬んでると思ったか? 紅焔を憎んでると思ったか?」
ぐしゃり、と顔を歪めて、曉炎は視線を紅焔からまた煌威に戻した。
「弟だぞ? そんな簡単なもんじゃない」
「……っ」
紅焔が息を呑んだ気配がした。
「お前だ、煌威。お前のせいだっ、お前が俺を見ないから……ッ!」
「っ! それ以上寄るな!」
紅焔に突きつけられた剣など眼に入ってないといった様子で、曉炎は再び煌威に腕を伸ばす。
それは、一瞬だった。
煌威は紅焔の肩越しに、赤が飛び散るのを見る。
何が起こっているのか、おそらく分かっていたのは紅焔のみだった。煌威を押し留める紅焔の腕が、彼が前に出ることを強く拒否している。
それは、見せたくないものが目の前にあることを示唆していた。
――予想はつく。見せたくないものは、曉炎の死体だろう。
そう煌威は判断して、そんな気遣いは無用だと紅焔の腕を掴んだ瞬間、
「……ッ!!」
目の前に、曉炎の血に濡れた顔を発見して呼吸を止めた。
ボタボタと、何かが落ちる音がする。
床を見れば、そこは曉炎の血でぬらぬらと光り血溜まりを作っていた。
煌威は落ちてくる血を辿るように視線を上げて、曉炎がその腹に剣を生やしていることに気づく。
紅焔の剣だ。華美な装飾のない、紅焔の実用的な剣は、曉炎の腹を深く突き刺していた。
「こ、煌……い……」
「……曉、炎……おまえ……」
気絶してもおかしくはない状態だった。痛みで気絶しても、いや、それどころか痛みの衝撃で即死してもおかしくない状況で、曉炎はそれでも煌威の名を呼んだ。
「俺は……おれ、は……」
腹に剣を刺されたまま、曉炎が脚を進める。
煌威を護る姿勢を崩さない紅焔は、その場を一歩たりとも動かない。
自然と、曉炎を貫く紅焔の剣は、食むように深く彼の身体に飲み込まれていく。
「ただ……、その眼……に」
「っ……」
曉炎が震える手で、煌威の頬に触れた。
ずりゅ、と。曉炎の腹に刺さっていた剣が、生々しい音を立てて柄までさらに深く突き刺さる。
「ただ、その眼に……俺を、映して……くれるだけでよかった……!」
ごぷり、と曉炎の口から血が溢れ、煌威の顔に降りかかった。
曉炎本人は気づいていないのか、それともわざとか。その血を拭うこともせず、逆に刷り込むように煌威の頬を撫でる。
その様を見ていた紅焔が顔を歪め、突き刺していた曉炎の身体を薙ぎ払うように突き飛ばした。
そのまま曉炎の身体を視界から隠すように、囲うように煌威の肩を抱き寄せる。
無様に床に転がった曉炎が、なおも呟いた。
「……それだけで、よかったんだ……」
その、憐憫を感じる言葉は。
紅焔の腕と大きな手に耳を塞がれ、肩で視界を遮られていた煌威には、届かなかった。
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