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第四話
これからのことを考えると、自然早くなる足で煌威は長い回廊を渡った。
繊細ながらも、豪奢な造りの扉の前に立つ。
扉の左右に控えていた侍女二人がさり気なく煌威の道を塞ぎ、胸の前で両手を組む拱手の形で礼をとるのを目の端で捉えた。佇まいからただの侍女ではないことが窺える。側使い兼護衛の侍女、と言えば聞こえはいいが、恐らく監視人だろう。
仕事柄なのか、無表情の侍女に視線を合わせて煌威は尋ねた。
「煌凛に会いたいんだが、いいかな?」
「少々お待ちくださいませ。失礼します」
左側の侍女が頭を深くたれてから、薄く開けた扉の隙間から中へ滑り込む。
血の繋がった兄妹でも、もう部屋を自由に行き来できなくなったと実感して、何とも複雑な感情が煌威の胸を過ぎった。
「――さまが、――――した――」
「――――お――て」
扉の向こう側から、あの侍女のものと思わしき声と、妹の微かな声を煌威は聞く。
数秒後、また薄く開いた扉から侍女が身体を滑り込ませるようにして出てきた。
「どうぞ、」
「失礼するよ」
左右から扉を開こうとする侍女を眼で制して、煌威は自分の手で獅子紋様の取手を掴んだ。
ゆっくりと扉を開けて、まず煌威の眼に入ってきたのは暖色というよりも原色の絨毯だった。元は簡素だったと思われる石造りの床は、鮮やかな染色が施された絨毯が引かれ、艶やかな印象を与えている。
漆喰の赤い壁に、柱や梁の表面は文様や彫刻で埋められ、城塞だった過去を思えばなんとも華美な部屋だった。婚礼を控えた皇女の部屋、という意味では妥当なのかもしれないが。
煌威に背を向けて、繊細な細工が施された椅子に座る妹の姿は、身に纏う白い絹の衣装なせいか、窓から差し込む陽射しを柔らかく反射させていた。
煌凛は煌威にとって、唯一の同母妹で煌龍帝国第一皇女だ。未婚で二十歳を超えていたぶん、第一皇女としてより、武事に優れた女武将としての立場のほうが有名だった煌凛は、他国に嫁ぐより帝国に尽くしたいと望んでいたことを煌威は知っている。何度か、男に生まれたかったと密かな告白を受けたこともあった。
しかし武事に優れている、と言っても煌凛は学がないわけではない。皇族として、皇后を母に持つ第一皇女として、己の立場を一番理解していると言える。だからこそ、今回の北戎との条約締結で白羽の矢が立った。
北戎が遊牧民だったのも煌凛が選ばれた理由の一つだ。他にも皇女はいるが、煌威含め帝国の重鎮達全ての意見は一致して、こう言っては何だが煌凛以外の皇女では遊牧生活は耐えられないだろうといった見解だった。
下の妹も含めた、帝国でぬくぬくと育った他の皇女達に、遊牧の厳しい生活は馴染むのに時間がかかるどころか病む可能性のほうが高い。
その点、淑女として社交界に出ることもあれば、皇女として政治に介入することがあり、武将として戦場にも立つ煌凛
は、今回の北戎との政治的取引を受け持つには適任と言えた。
煌威が帝国の為に、と政治的取引であるこの婚姻を鼓舞するのは簡単だった。皇女であると共に武将でもある煌凛には、最適な送り文句だと思う。
だが、唯一の同母兄として考えるなら話は別で、この胸の内をどう言葉にすればいいのか分からず、煌威は口を開くに開けなかった。
――幸せに、は嫁ぐ妹に対して兄としては正しいかもしれないが、皇太子としては違う。妹に苦渋は味わわせたくないし、できるなら幸せになって欲しいと思うのも真実だが、そもそもこの婚姻は政治的行為であって、そこに個人の感情は考慮されていない。許せと謝罪するのも、煌凛の尊厳を踏みにじる言葉だ。
「煌り……」
どう声をかけるのが正しいのかと苦悩しつつ、無限ではない時間に焦って口を開いた瞬間、
「兄上らしくない」
喉を鳴らして笑う煌凛の声が響いた。その声は明るく、はっきりと煌威の耳に届くほど迷いなく潔い。
しかし背を向けたまま、こちらを振り返り見ることをしない煌凛に、煌威は無言で続きを促した。
「……わかっている。ありがとう、兄上」
「煌凛……」
「大丈夫。皇族と生まれたからには政略結婚は当然のことだ」
いずれ、自分は他国に嫁ぐ。帝国に尽くすなど、惚れた腫れたでの婚姻など、皇女という立場では無理な話だと。分かっていた、と煌凛は笑い混じりに語った。
「いつまでも、『皇帝の娘』ではいられない。わたしは煌龍帝国第一皇女だ。それ以上でも、それ以下でもない。いずれ、こうなるだろうと分かっていた」
幸せかそうでないかは問題ではない。いや、問題にすらならない。わたし達の人生は、義務と責務で出来ている。皇族とはそういうものだ。そこに、個人の意思はない、と。煌凛は噛み締めるように呟く。
「なのに貴方はわたしを気遣ってくれた。ありがとう兄上。次期皇帝の妹として、愛されて誇りに思う」
「……っ」
次期皇帝、と。煌凛に改める形で己の立場を言葉にされ、煌威は思わず息を呑んだ。現実を、思い知らされたような気がした。
「帝国の皇帝の妹が北戎の統領の妻であれば、これほど国にとって最良なことはないだろうよ」
侵さず侵されず。それは、手に手を取り合った平和へと繋がる一歩に違いない。
「兄上、わたしは北戎を国にする。帝国と肩を並べられる国に。わたしは北戎の皇后になる。貴方と共に歩める人間になる」
「――……っ」
確定してはいない未来を、煌威自身はできれば避けたい未来を、当然のことのように語られた。
煌凛に悪意はなく、純粋に国と自分のことを想ってくれていることは煌威にもわかっている。次期皇帝という身分ではなく、煌威自身に敬意を払い、最上級の信頼を寄せてくれていることもわかっていた。
だが、煌威は紅焔を皇帝にしたいのだ。例え、どんな卑怯な手を使ってでも。
妹への情で埋まっていた胸が、仄暗い感情に黒く染まっていく。ジワジワと己の中に広がる闇を実感していたときだ。
「お話中失礼します」
無感情な侍女の声が一瞬、その侵攻を止めた。
そして、続いた言葉に耳を疑う。
「紅焔様がいらっしゃいました」
「っ!?」
――なぜ、紅焔が此処にいるのか。
煌威の顔に出た疑問に、煌凛がカラカラと笑った。
「わたしが呼んだ。兄上を迎えにくるようにと」
「っ……」
――わかっている。理解している。煌凛に他意はない。思惑も何も無い。
しかし、煌威は遠回しに忠告されているように感じた。
諦めろ、と。望みはない、と。
紅焔を皇帝とするのは無理な話だ。貴方が皇帝なのだ、と。
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