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第六話
「……殿下、そろそろ休まれては?」
普段はつり上がっている眉を心持ち下げて、紅焔が顔を覗き込んでくる。
なんとも面映ゆい気持ちになりながら、煌威は首を振った。
「いや、大丈夫だ」
「しかし昨夜からお休みになられていない……お身体に悪い」
それとなく腰に回された紅焔の腕が、身体を持ち上げ寝台へ誘導しようとする。
膝裏に手を差し込まれる前に、煌威は紅焔の肩を押した。
「大丈夫、大丈夫だから」
椅子に座り直し、ため息をつく。
煌威は隠すことなく顔を歪めた。
「このままではまずいんだ」
煌威の唇から洩れた苦い言葉に、今度は紅焔が顔をしかめた。
北戎の娘が身を投げた。その噂は、内城で起こったことにも関わらず、瞬く間に城郭都市・城陽全域に広まった。
そもそも条約締結の為に、城陽には帝国の皇帝と北戎の統領の他、名だたる将軍と重鎮が集まっていたのもあり、都市の住人から注目を浴びていた。内城に住む領主や臣下に箝口令を敷いても、必ずどこかで綻びが出る。最初は小さな綻びでも、すぐに大きくなることなど容易に想像できただろうに、油断も何もない。
目の前で北戎の娘が亡くなるのを見た証人にあたる人間が、全員帝国側の人間だったこと、そしてその一人が皇太子だったことも噂を広めた要因の一つだ。これで何かを勘ぐるな、と言うほうが難しい。
真偽は別として、北戎側からは案の定と言うべきか、騙し討ちを疑われた。
最初から条約など結ぶつもりはなく、自国の領土の近くまで誘い込み、一網打尽にするつもりだったのではないか、と。
あの場にいた目撃者が発見者で、尚且つそれが帝国の皇族三人だけだったという事実は、どう説明しようとも言い訳にしか聞こえない。そう言われてしまえばどうしようもない。
当然、条約は娘の死の原因を解明するまではと先送りにされた。
解明して、それでどう決着をつけるのか。帝国の申し出次第では……、という状況だ。
城下町では様々な憶測が飛び交っていた。
この城陽は、帝国にとって前線基地と同じだ。なまじ帝国と北戎の領域中間地点にあるだけに、帝国民だけではなくこっそりと物々交換で訪れていた北戎の人間も城下町に居た。
騙し討ちの件ももちろんだが、やれ北戎の娘は他に好いた男がいて世を儚んでの身投げだの、皇太子が己の功を焦って殺しただの、娘は本当は勝ち戦を諦めていない北戎の開戦理由に利用されただの、好き勝手な噂が流れた。
噂とはそういうものだが、煌威にそれらを否定できる材料が無かったのが問題だった。
娘の死が北戎側が企んだ作戦だった場合は別として、娘が他に好いた男がいたので身を投げた、ならば特に訂正する必要はないので煌威も放っておく。帝国に落ち度はないのだから当然だ。むしろそれが真実だったのなら、北戎側の落ち度だ。
しかし皇太子が功績の為に殺した、というのは根拠も何もない戯言と煌威自身言えるのは確かだが、それは証拠にはならないと言われた場合、打つ手がない。というか、確実に言われるだろうから困るわけだ。
明確に、帝国に非はない。とは言えなかった。
さらに言うなら一つだけ。帝国に非はない、と絶対的自信を持って言えない理由が、確信が煌威にはあった。
煌威は、確かに見たのだ。あのとき、曉炎が笑っていたのを。
――曉炎は、なぜ笑っていたのか。
笑う場面ではないことを本人も自覚していたからこそ袖口で隠したのだろうが、その行動が煌威の不信感を煽った。どう考えても悪い方向にしか思考は進まない。
今回の条約は北戎を一網打尽にする為の罠だったが、煌威には故意に隠していた。これはもう除外だ。隠して何か帝国に得があるかと言われたら、何もない。故に意味が無い。それが答えだ。
曉炎が笑っていた理由。それは、彼が帝国内部の裏切り者だった。と考えるのが妥当だろうと煌威は推測する。
――曉炎が裏切り者だったとして。
北戎と裏で繋がっていて裏切ったのか、それとも独断か。まず、そこだ。
最初は食料問題からだったとしても、長いこと帝国と北戎は争いを続けてきた。
煌威が知らないだけで、いくら疲弊していようとも娘を開戦のきっかけにするほど、北戎が帝国を恨んでいる――。そんな可能性も、無きにしも非ずだろう。
だが、娘を犠牲にする覚悟をとるほどの計画に、敵の人間を加えるだろうか。殺したい、滅ぼしたい国の人間を。
――否。もし、わたしが北戎統領であれば、否だ。と、煌威は唇を引き結んだ。
妹を犠牲に自国の民を救える。と、いうのであれば、煌威も涙を飲んで敵方と組んだかもしれない。皇太子として、煌凛を犠牲にすることも厭わなかったかもしれないが、それが開戦の為と言うなら話は別だ。それは、すべてを失う悪手だ。
とすれば、これは曉炎の独断ということになる。
――曉炎は、北戎との戦争を望んでいるのだろうか。
北戎の娘を利用してまで。北戎との、条約を破棄してまで、戦争を望んでいるのだろうか。
殺意については、弟を暗殺しようとした前科のある男だ。煌威も、絶対にありえないとは言いきれない。
「……まさか、」
嫌な想像が、煌威の頭を過ぎった。
――曉炎は弟を殺めるだけでなく、国を欲しているのだとしたら。帝国を、欲しているのだとしたら。
曉炎は、皇族だ。皇弟の息子であり、皇太子である煌威の従兄弟だ。
皇族の役目を、理解していると思っていた。いくら弟を疎ましく思おうと、皇帝を敬う気持ちはあるのだと。国を手に入れようなどと、考える筈がないと煌威は思っていた。
――わたしの、怠慢だ。
「殿下!?」
紅焔の慌てたような声を背中で聞く。
いても立ってもいられず、煌威は部屋から飛び出していた。
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