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第八話*
「……紅、焔?」
自分の肩に唇をつけたまま微動だにしない紅焔に、どう反応するのが正しいのか見当もつかず、煌威は途方に暮れた。
両手首は紅焔に掴まれたまま胸の前で固定され、手持ち無沙汰に指を動かす。
閨事を連想させるような触れ方でないことも困る原因の一つだった。下心を感じるものであれば、不敬だと煌威も拒否しない理由などなく、振り払うこともできたものを。
しかし下心を感じないからと言って、忠誠心からの行動かと聞かれたら甚だ疑問だ。どこの世界に忠誠を誓う主君の肩に、口づける将軍がいるというのか。
「紅焔、……いっ!?」
いつまでもこのままでは埒があかず、直接問いただそうと煌威が口を開こうとしたときだった。
突然走った熱い感触に驚く。
痛み、ではない。ただただ熱く、濡れた感触に逆に血の気が引いた。
まさか……、と思いつつ視線を巡らせて息を呑む。
角度的に視界に入ったのは、大部分が紅焔の頭だったが、深紅の髪の隙間から覗く軟体動物のように蠢く赤は、紛れもなく人の舌だった。
紅焔の、舌だ。
――舐められている。
紅焔に、肩を舐められている。
実感すると、熱はさらに増した。
ぬる、と何度も往復するそこは痣で赤くなっている箇所だが、どう考えても忠誠心からではない。浅ましい行為だと思うのが普通で、納得のいく行為だというのに、まるで猫が飼い主を労るようだと煌威は場違いに思う。
「ン……っ、ぅ……ァッ紅、焔!」
煌威が堪らず上げた声は、悲鳴に近かった。自然と荒くなっていた呼吸に、唾も飲み込めないまま喘ぐように息を吸い込んだ。
「紅焔……ッ、こぅ……えっん……!」
混乱する思考で繰り返し名前を呼べば、ちらりと紅焔が目線を上げた。
いつもの強烈な光を放つ黄金の瞳ではない。甘い蜂蜜色の双眸が、上目遣いで意味ありげにこちらを見ている。
「っ……紅焔」
再度、名を呼べば、ゆっくりと紅焔の唇が離れた。
紅焔の唇と煌威の肩の間に隙間ができたせいで、ヒヤリとした空気が熱くなった肌を撫でる。
鼻先が触れるほど間近で交わした紅焔の視線は、 何かを訴えているような気がするが分からない。煌威には、紅焔が分からなかった。
肩に口づけてきた理由も。その視線の意味も。
確実に言えるのは、今煌威は恐怖を感じていることだ。紅焔のこちらを見てくる視線に、警鐘が止まらない。
このままでは呑み込まれる、と本能が告げている。
だが、皇太子としての自尊心が目を逸らすという選択肢を煌威に許さなかった。
刻一刻と紅焔の侵食を感じ、身震いしたときだ。
「何をしている!!」
鋭い怒号が飛びこんできた。
視線を動かす暇もないまま、紅焔の腕ごと手首を引っ張られ煌威は面食らう。当の紅焔ですら目を見開いていたところを見ると、予想外というのが見てとれた。
武官の紅焔にすら気づかれず近づいた、ということは相手も間違いなく武官であり、宵の刻という時間帯から何か誤解されたかと、煌威は口を開こうとして止まる。
紅焔の、予想外だという態度が本当にそうなのだと気づいたからだ。
「煌威殿に不敬な……!」
紅焔の腕を掴んでいたのは、曉炎の腕だった。これほど怒りを顕にしている曉炎も珍しい。
曉炎は悪漢のような顔つきで、いつも皮肉げに笑っている印象が強い男だった。冷静沈着と言えば聞こえはいいが、情というものを母親の腹の中に置いてきたのではないかと煌威も思っていたほどだ。
しかし、深衣を肩まで剥かれた自分の姿に一つ頷く。
なるほど。確かに今の自分と紅焔を見れば、その態度も仕方ないことかと煌威は思う。襲われている、と取られてもおかしくない。
煌威は曉炎の演技力と知略に脱帽した。弟である紅焔を暗殺しようとしていた過去を持ち、帝国を手に入れようとしている人間にとってみれば、こんな醜聞を目にしたなら手を叩いて喜びたいところだろう。
皇太子を気遣い、弟を叱る兄を演じるその豪胆さに煌威は感心した。
だからと言って、今は曉炎の豪胆ぶりに感心している場合ではないことも明白だった。煌威の考えが正しければ、なんと言っても曉炎は今回の不祥事の重要参考人だ。
もし、これから不慮の事故で皇族が何人か亡くなったとして。曉炎を疑う者はいない状況を作り出していることからも、 早急に事に当たらなければ拙いことは明らかだった。
これ以上、何かあってからでは遅いのだ。言うならば、既に人が一人死んでいる。
「そんなことより……」
煌威は正しいことを言ったつもりだった。自分の醜態よりも、曉炎の身柄確保を優先するのは当然だろう。
「そんなこと!?」
しかし、曉炎が声を荒らげたことに驚く。
「そんなことと……、今そんなことと言ったのか!?」
激昂。それが、今の曉炎に相応しい言葉だった。
とても演技とは思えず、煌威は困惑する。
元々悪かった目つきはさらに悪化して鋭く、普段は丁寧な言葉遣いが見る影もない。顔つきが悪漢でも、物腰の柔らかさで誤魔化していた曉炎とは思えない対応だった。
「煌威! お前は……ッ」
曉炎の腕が、矛先を紅焔から煌威に変え伸びてくる。
両手首を紅焔に握られていた為、曉炎が捉えようとしたのは剥き出しになった煌威の肩だった。紅焔の手形のついた痣が浮かぶ、紅焔が舌で触れていた肩だ。
兄である曉炎からすれば、手形が紅焔のものであることに直ぐ気づいたのだろう。
その事実に一瞬ハッとして、曉炎の眦がさらにつり上がった。
「紅焔っ、貴様!!」
曉炎の常軌を逸した様に、当然の如く紅焔が動いた。
紅焔は煌威を自分の背後に庇うような格好で身構える。
煌威が紅焔の肩越しに見た曉炎は、ギリギリと歯軋りするようにこちらを睨みつけていた。
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