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物語は始まる
荒野に一陣の風が吹き、土埃を舞い上げた。それはにわかに渦を巻き、一隊の右手の向こうを走り抜けてゆく。
砂塵除けに顔を覆っていた衣の袖を手で払い、ラクダの手綱を握ったイエナは、遠ざかるつむじ風を振り返って見つめた。
「風というのはなにがしかの衣をまとわねば目に映らぬのはなぜでしょう。あれはいったい何でできているのでしょうな」
イエナの声に、彼の父である族長シビルは鼻を曲げた。
「お前はつくづくわけのわからぬことを考える男じゃな。土埃の衣をまとわずとも木々が揺れれば見えるではないか」
「それとて風のまことの姿を見たことにはならぬのです」
耳の穴の埃を小指でほじったシビルは鼻で笑った。
「わしは目に見えぬものの正体を知りたいとも思わんがな。それをイエナ、無駄な考えと言うのじゃ。生きていく上でなんの役にも立たん」
荒野を陽の沈む方へ半日ほど行ったところに、シビルと親交のある族長が住む村はあった。その族長の娘は大した器量よしということで、イエナもその名だけは知っていた。
互いの歳も近いため、その娘を嫁にどうかという話が舞い込んだのはつい先日のことだった。
会うだけは会ってみたらどうだというシビルの執拗な説得に、イエナはラクダにまたがり七人のお付きの者たちと共に村へ向かった。
「衣もターバンも新しい物にすればよいものを、お前はへそが曲がっておる」
「いつも通りでよいのです」
イエナは日に焼けた頬を撫で、ところどころに低木や草の生えた荒野を無言でラクダに揺られた。
陽は高く昇りつつあった。
褐色の大きな瞳の上にはくっきりと細い眉。通った鼻筋と厚すぎず薄すぎず賢そうな唇。イエナが息を呑むほどに美しい娘だった。
しかし、自身の名を名乗ったきり、その娘は押し黙っていた。確かに近隣に名をとどろかせるだけの器量ではあったが、その所作はどこかよそよそしく、冷たい印象を与えた。
婚礼話が進む中、その娘はうつむくでもなくイエナを見るでもなく、終始斜め前の虚空に視線を止めていた。
若い者同士にしてやろう。シビルの言葉で双方の立会人たちはその場を離れた。
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