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 アリアのフルネームは、中村有々という。なかむらありあ、と読む。29歳の男性、独身で一人暮らし。  おそらく俗にいうキラキラネームに分類されるのだろうが、たとえば光宙(ぴかちゅう)今鹿(なうしか)みたいな強引な当て字とは違って、訓読みで読めないこともない文字列であることから、まだマシな部類だとアリア本人は思っている。小学生のころはこの女っぽい響きのある名前が少しイヤだったが、10代も後半になるとだんだん気に入ってきて、大学を卒業するころにはむしろ好きになっていた。  「中村」という平凡なファミリーネームにくっついている、強すぎるインパクトを与えるほどでもなく弱すぎる印象を持たれるでもない、ほど良い程度のこのファーストネームは、自己紹介した相手に一度で覚えてもらえることが多く、煩わしさよりもむしろ利点のほうが上回っていた。  しかし、まさかこの名前でこんなに苦労することになるとは、夢にも思っていなかった。  アリアはほんの2週間ほど前に、勤務していた会社を退職した。  会社は、英語及びドイツ語圏の推理小説の翻訳をメインに手掛ける中堅出版社で、犬や猫や爬虫類などペットの飼育ノウハウに関する本も、社長の趣味もあって少ないながらも出版したことがある。  アリアはその会社で、営業の仕事をしていた。  営業といってもアリアが担当していたのは広告ではなく、書店のドサ回りだった。本屋を一軒一軒訪問し、書店店主やハードカバー小説担当者に頭を低くしながら面会して、新刊の入荷をお願いする。 「今回の新刊は、最高傑作です。手に取っていただければご理解いただけると思います。必ず売れますので、ぜひ目立つ場所に平積みしていただけないでしょうか」  販促のポスターを持ちこんで、そんな台詞を何度言ったか数えきれないが、実はそう言ってるアリアも読んでないことのほうが多かった。  会社がブラック企業だったとは思わないが、最近はちょっと規模の大きな書店になると、取次へ小説の発注を担当しているのがアルバイトだったりすることも多く、「今日は担当が出勤してませんので」や「担当者は午後7時からの出勤になっています」などと言われることもしょっちゅうだった。  夜中まで残業させられるということはないが、帰宅時間は意外に不規則で、日曜日に隣町まで営業に出なければならなくなることもあった。  しかし、アリアが退職を決断する決定打となったのは、会社が一向に自社の出版物を電子書籍化しようとしないことだった。ただでさえ本が売れないこの時代、スマホやタブレットに対応しないと、吹けば飛ぶような中小出版社が生き残れるはずがない。  何度か上司に直談判したことがあるのだが、「取次や大手の販売店さんとの長年の関係もあるから、そう簡単に彼らを切り捨てるようなことはできない」という理由で却下され、キミが(――つまり書店営業を担当するアリアが、という意味)書店営業をちゃんとやってれば、ウチの商品はちゃんと売れる、売れないとしたらキミの努力が足りないんじゃないか。そう言われたとき、心がボキッと折れる音がした。  その1か月後、アリアは辞表を提出した。  再就職のアテはあった。退職を決断しかねていたころに、大学時代からの知り合いである鈴木と、仕事のグチを聞いてもらおうとひさしぶりに居酒屋で酒を飲んだとき、 「ほな、もし今の会社辞めるんやったら、ウチの会社で働かへんか? ちょっと社長に聞いてみよか?」と誘われた。  鈴木は大学卒業後、親族が経営する中規模の土木建設会社に入社していた。そこで営業担当する人員一名が、再来月定年退職を迎えるということだった。  出版社から土建屋に転職となると、ずいぶんと異なる業種へ移行することになる。ただし、営業という仕事は人に会って自社の製品を売り込むという行為じたいには変わりはないだろう。  そんなことを考えているアリアにかまわず、鈴木は話を続けた。 「まあ詳しいことは、再来月になってみなわからんし、実際求人を出すんもそれからになるやろうと思うけど、おれのほうから『優秀な営業マンでひとり空いてんのが、おんねん』と推しとくわ。採否を決めるんは俺やないから、確約はできんけど、とりあえず、内々定のさらに内定ってくらいに思といて」 「待てよ。早まるな。俺はまだお前んとこの会社で働くと決めたわけじゃないぞ」  そう言ったものの、アリアの腹はほぼ固まっていた。
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