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05. 闇の中
薄暗い世界に一条の光が差し込む。
懐かしい天界の光。
「……」
その光は痛ましい記憶を呼び起こさせる。
彼は静かに目を伏せた。
「天の風と闇の露、そして《元素》の渦の香り」
誰かが詠うように呟いた。
「懐かしい香り」
「一体、誰が堕ちてきたのかご存知?」
女の声だ。
この地に堕とされて二千年。既に聞き飽きた音色だった。
彼は答えず踵を返した。
「貴方はご存知の筈。時を司る時神、運命を司る理神にも賞賛された〈星読〉の王太子よ」
「お可哀想な黒天人族の王子様。父王も天帝も二千年の時を経ても、未だに貴方を許されない」
「薄情な天の種族」
「恥知らずな天の王」
そうして、檻から出ることも叶わぬ虜囚達は、唯一の娯楽と言わんばかりに闇の中に消えた彼を嘲笑し続けた。
◇◇◇
瞼を開けば禍々しい赤さに目が焼かれそうだった。それは白天人族の住む昼の都には見られない色だ。
翌朝、暗く沈んだ自室で目覚めたメリルは膝を抱えて一人震えていた。
昨夜の神宴の記憶が蘇る。
人々の呆れた様な目。蔑む様な目。
(どうしてこんなことに……!)
自分は神々の期待に沿うことが出来なかった。
いつも通りに悠然と振舞っていればよかったのだ。
嘗て「英雄」と謳われた白天人族の「救世王女」のように颯爽と渾神を〈封印〉して見せ、この身に浴びる程の賞賛を受けなければならなかったのに。
そうすれば、きっと理不尽で頑なな火神も自分を認めざるをえなかっただろうに。
(そんなの、私の所為じゃない!)
自分だけではない。渾神を恐れぬ者など、世界のどこにもいる筈がない。それが例え神族であったとしても。
しかし、心の底ではそう思っても、決して表に出してはならなかったのだ。
見渡せば、侍神候補者に用意された粗末な部屋がある。
寄宿舎の規律は厳しく、使用人もいない。それでも、侍神になる時を夢見て我慢してきた。
あのおぞましい地上人の小娘もそう。本当は視界に入れるのも、同じ空気を吸っているのだと考えることさえ苦痛だったのに、そんな生物にでも慈悲をくれてやることが侍神としての評価に繋がると思ったから我慢した。
そんな数々の努力は全て水泡に帰してしまった。
(どうして私がこんな目に……!)
自分は白天人族の王女だ。古き良き名門。神族の王に奉仕することを許され、第一級種族と定められた誇り高き白天人族の王女だ。
生まれた時から心優しい両親や兄弟達に囲まれ、数多の民草に傅かれて育ってきた。美しく煌びやかな城、艶やかな衣装や装飾品、満ち足りた日々。全てが純白の光に包まれていた暖かな時間だった。
今、それらは周囲にはない。
だが、自分はあの頃よりもっと多くのものを獲得できている予定だった。こんな風に孤独で陰鬱とした惨めな朝を迎えているなど、起こり得る訳がない――。
(見捨てられた?)
不意にそんな考えが過ぎって頭を振った。
そんなことはありえない。あの夜、神宴の後だってお父様やお兄様達は優しく笑いかけて下さった。候補者に立候補した時も「頑張りなさい」と祝福して下さった。
だから、自分は侍神になる。皆、それを望んでいる。それが世界にとっても幸せなことなのだ。だからなれる。
他者より出遅れている現在など、ある筈がない!
(身の程知らずね。他者より恵まれているからこそ、貴女は他者より劣っているのよ。光に包まれた暖かく優しい世界から出れば、まともに空気だって吸えない身だというのに。……だから、貴女は出遅れたの)
頭の中で女の声が響いた気がした。
朱色の世界に名残のように、夜の空気を身に纏った天女が笑う。
その声の主をメリルは知っていた。
自分と同じく侍神候補者だという黒天人族の王女だ。寄宿舎内でも何度か見かけたことがある。
(当然の結果ね。神意に背きし者が侍神だなんて笑ってしまうわ)
「違う!」
(貴女のお父様達が喜んでいたというのも、厄介払いできたからじゃないの? こんな無能な娘)
「違うっ、違う!」
両耳に手を当てて、彼女は必死に頭を振る。
「お前如きが何を言う! 堕天の王太子を兄に持つ、汚らわしき黒天人族の女などに!」
その時、さっと脳内が冷えた。
そうだ、自分は恵まれている。高潔な白天人族の王女なのだから。傲慢なだけの黒天人族とも、あの無知無能な地上人の小娘とも違うのだから。
(巻き返しは幾らでも効く)
口の端がつり上がり、安堵の溜息が毀れた。
メリルはゆらりと立ち上がる。
いつまでもこんな暗い部屋に閉じこもっているから、良くない思考に捕らわれてしまうのだ。
「そうよ、お外に出なきゃ。もうすぐ昼の――私達の時間だわ!」
甲高い声で笑うと、鏡に向かい身支度を始める。
そうして、メリルはいつもの華やかな少女の仮面を被って外へと飛び出していった。
置き去りにされた部屋には血のように赤い暁闇と甘い女の囁きだけが残った。
(そして、今は暁。夜と昼が交じり合う、混沌とした私の時間)
闇に溶け、女神はねっとりとほくそ笑んだ。
◇◇◇
「おめでとう」
「ああ、実に喜ばしい日だ」
「我等の新たな妹に祝福と賛辞を」
「……お前達、わざと言っているだろう」
其処彼処から漏れる失笑にふつふつと怒りが沸いてくるが、爆発しそうなその感情を寸前で抑え、改めて天帝は一同を見渡した。
この場にいるのは皆、上位神ばかりだ。昨夜の神宴に参加していなかった者もいる。
「しかし、あの問題児の侍神とは……くく、気の毒に。生贄だな。まあ、上手くやって欲しいものだよ。皆、あれにはほとほと手を焼いているのだからな。止めてくれる者がいると助かるというものだ」
「彼女は中立――いや、孤立と言った方が良いか。とにかく、今迄侍神を持とうとはしませんでしたからな。流石は侍神制度成立以来極めて希少な地上人の候補者、というところですか? 天界に来て間もなく上位神に見初められるとは。……まあ、邪神ですが」
「――と言うよりも、天界に来る前から目を付けられていた可能性が高いでしょう」
昨日の神宴に参加し、渾神〈封印〉後の現場検証にも立ち会ったという木神イスターシャが報告書類に目を通しながら言った。
「恐らく、『アミュ』……ですか? あの地上人の少女の肉体に《渾》の欠片か、何かしらの〈神術〉の核を埋め込み、致死の衝撃が加えられると発動、渾神の傀儡として覚醒する仕組みになっていたのです。また、仕掛けは我々神族にも感知できないよう、娘が胎児もしくは出生まもなくの頃に施術し、時間をかけて身体に馴染ませ、隠蔽していったと思われます」
聞き役に回っていた水神リネルダスが「ああ」と口を開いた。
「実は私も地上人の侍神候補者というものに興味があって、昨日こっそり覗いてみたのだよ。確かに本来ならば神族の補助か突然変異でも起こさない限り、地上以外の世界に生息できない筈の地上人が、随分しっくりと天界の環境に馴染んでいたものな。なるほど神の傀儡だったという訳か」
彼に続くように他の神々もざわざわと話し始める。
「肉体改造に蘇生、回復、憑依の複合〈神術〉か」
「いや、肉体改造と操作ではないのか?」
「しかしまあ、毎度のことながら手間の掛かることをする」
「きっと、遊んでいるつもりなのでしょうよ」
「ペレナイカ、お前の責任だな」
「知らないわよ、そんなの!」
神々の冷ややかな視線が凍傷の為に全身を包帯で覆った火神へと注がれる。
火神は気まずそうに視線を逸らして赤金の髪を掻き揚げた。音を立てて梳かれた髪からは雲母のような火の粉が舞った。
「まあ、図らずも子供を焼き殺してしまったのは、申し訳ないとは思ってるけど……」
場が沈黙に包まれる。
少し間を置いて天帝の大きな溜息が響いた。それを聞いた火神も一層不機嫌な顔で強く息を吐いた。
「さしあたっては渾神の目的だ」
沈黙の中、天帝が口火を切った。
神々は金水晶の玉座に腰掛ける王へ注目した。
「あれは災厄の神の一柱。平穏でも完成された世界を嫌っている」
「世界に再び争いを起こそうとしていると? あの子供を使ってか?」
「何だ。侍神に選定した訳じゃないのか」
「当然だろう。反体制の神だぞ」
神々はどよめく。
渾神は過去にも神族や世界を大きく変容させる諍いを生み出してきた。
そして、この場に居並ぶ誰もが成す術もなく、ただ渾神の掌の上で翻弄されることしか出来なかったのである。
「或いは娘は陽動かもしれん。奴のすることだ。地上人の子供一人の犠牲程度で済む筈がないだろう。だが、口惜しいことに現状の手掛かりだけでは未だ渾神の真意は見えず、それが分からぬ以上、我々が下手に動くことは得策ではないと私は考えている」
「相手が行動を起こすまで様子見と? 対症療法とは何とも心許ないことだな。少ない手掛かりの中でも動いていかねば、それこそ奴の術中にはまるぞ」
「口では何とも言える」
「私も天帝の意見に賛成だ。渾神は稀代の策士。嘗てそのような軽挙妄動が原因で底なし沼のような罠にはまった者もいるのだからな」
「だからと言って……」
そうして、皆が口々に意見を述べ合い、時には体制に対する不満の声も飛び出したりして、議論は宵の口まで続いた。
皆疲れていた。その為か、強く異論を唱える者もあったものの、最終的には天帝の提案通りに相手の出方待ちという方向で落ち着いたのである。
「であれば、あの地上人の娘は当分処分できず、放置ということになりますね。歯痒いものです」
誰であったか、去り際に女神の一人が不安げにそう漏らしたのが、酷く耳に残った。
神々が帰途に就いた後、自室に戻った天帝は露台から昨日渾神が出現した建物を見下ろした。
あの場所には未だ〈封印門〉が刻まれている。
恐らく、既に渾神の憑依は解けているであろう。無力で哀れな地上人の娘は訳も分からず暗闇に囚われたまま、開放の時を待っているに違いない。
――嘗ての渾神と同じように。
そこで、はっと天帝は目を見開いた。
続いて頭を振る。
(まさか……な)
渾神は策を弄し、言葉で人心を惑わすことはあっても、〈神術〉らしい〈神術〉を余り使わない。それが渾神のやり方であり矜持だ。だが、その不文律は覆された。
ならば、あの娘は天界を陥れる為の道具などではなく、渾神にとって本当に特別な存在ということではないのか。
選ばれた娘は今、嘗ての渾神の境遇を追体験している。否応なしに渾神を理解する。まるで侍神のように。
(娘を〈封印〉させることも、渾神の狙いの一つだったのかもしれないと? 実に私らしい、愚かな感傷よ……)
ふと、今日の議論の場での火神ペレナイカの問いが思い出された。
「あの娘、渾神が動くまで耐えられるの? 渾神自体は最凶最悪の邪神でも、依代になったあの娘は只の地上人でしょう? 」
彼女は射るような目でそう聞いてきた。
自分は無感動にこう答えた。
「耐えられるさ。あの娘の地上人としての肉体は、お前の〈神炎〉に焼かれた際、死んで炭となった。今、生来の肉体のように存在して見える物は、渾神が用意した〈神術〉か〈祭具〉の類だ。つまり、あの娘は精神体の宿った『物』。生命ではあっても生物ではないのだよ。精霊や我々神族と同じように、な」
◇◇◇
天界での会合を終え、漸く火界の宮殿に帰宅した火神を出迎えた火人族達は、一行と共に大門を潜る異質な気配を感じ取った。
不穏な出来事が起こったばかりだ。騒ぎに便乗して小賢しい魔族が進入してきたのかもしれない。
火神と共に帰還したヴリエは早急に清めの〈篝火〉を用意させようとした。
しかし、火神がそれを制した。
「他人の家に入る時は挨拶ぐらいするものよ。それをしないのは泥棒」
ヴリエは呆けたように口を開けていたが、やがて、火神が気配の主に言っているのだと察する。
慌てて周囲を見回したが、火神と自分、そして火人族の従者達の他には誰もいない。
「誰じゃ! どこにおる!」
甲高い怒声とは裏腹に金の耳飾が涼やかに鳴った。
そんなヴリエを嘲笑うかの様な、くすくすという女の笑い声。
「おのれ……。何という侮辱!」
血が滲む程に唇を噛み締めるヴリエを見て、火神は愉快そうに笑った。そして、神輿の豪奢な椅子にどっしりと腰掛け、繊細な彫刻の施された火晶樹製の煙管を銜えた。
一つ煙を吐いて足を組むと、緋色の膜天井を仰ぎ見る。
「これで満足? ――ヴァルガヴェリーテ」
驚愕の眼差しでヴリエは火神を見る。
我が主神は一体何と言ったのかと耳を疑った。
(ええ十分よ。ペレナイカ)
相手はそう答えると、その気配を完全に掻き消してしまった。
恐らく宮殿から去っていったのだろう。
「どういうことで……ございますか?」
冷や汗で全身を濡らしてヴリエは火神に問い質した。先程の会話を聞く限り、まるで火神が世界に仇なす邪神と共謀しているように聞こえた。それは反逆者の道だ。例え、上位神の一柱であろうとも罪を免れることは出来ない。
思い起こせば火界を発つ前、火神はこう言っていた。
自らの侍神を得ることの他に、もう一つ仕事がある。それはある友人の頼みで、本来ならば侍神候補者にもなれない地上人の面倒を見てやることだと。
その神の名を聞かされてはいなかったが――。
「火神様。もしや、以前仰っていた御友人であられる神というのは……」
「……」
「火神様!」
ヴリエは凍り付いた。
「貴女は知る必要のないこと。話は終わり」
どっと地面に平伏するヴリエを他所に、火神は再び煙草を楽しみ始めた。
火神の役割はアミュを焼き殺し、脆弱な地上人の肉体から、渾神が創造した侍神に相応しい強い肉体へと転生させること。そうやって、渾神に侍神を提供すること。
それが天界に赴いた火神の真の目的だった。
自分の侍神については、当分持つ気にはなれないと思っていた。スティンリアに再会し、改めて自覚した。やはり、彼でなくては駄目だ。
渾神の真意は知らない。
《渾》の本質は「変化」ではなかった筈だが、いつしか渾神は変革の神と呼ばれ、彼女自身もそう名乗るようになった。
ならば、渾神は変えてくれる。それが《渾》だと自負しているのなら。
停滞する天帝の世界を――。
◇◇◇
〈封印門〉の前は先日の騒ぎが嘘のように静かになっていた。
シーアは手に雲花の花束を抱えてやって来た。
アミュはまだ生存しているそうなので「嫌がらせにしか見えないな」と内心苦笑したが、それでも何となく花を供えたくなる気分になったのだ。実際、彼女が処分されるのは時間の問題のような気もしている。
ふと、幼い頃に兄――黒天人族の王太子だった長兄の姿が思い起こされた。その瞳にあったのは天界への失望と拒絶の光だった。
そうして、天界を去り地上に降りた後、兄もまた〈封印〉されてしまった。未だに罪を許されてはいない。
「何をしている。ここは立ち入り禁止だぞ」
静かな、辺りの空気にごく自然に浸透していくような穏やかな音色。つい先日も聞いた声だ。
「闇神様……」
振り向けばやはりその神がいた。
「知っています。白天人族の上級術者達が張り巡らせた〈封鎖錠〉の検閲を騙すのは、流石に骨が折れましたわ」
懐から鈴状の〈祭具〉を取り出してみせる。
〈祭具〉とは端的に言えば特定の〈術〉を付加した道具のことだ。術者としての能力を持った者が〈祭具〉を使用すれば、〈祭具〉に載せられた〈術〉を行使できるという代物である。
元は、ある一系統の〈術〉に対してしか素養を持たない術者が、他系統の〈術〉も補助的に使用できるようにと開発されたものであった。しかし、後に〈術〉の構築にかかる手間やそれに伴う長い発動速度に対して、製造時から〈術〉の構成が組み込まれている〈祭具〉の実用性の高さが評価されることになる。
よって、現在では〈術〉の使用頻度や研究は大幅に後退し、神族が行使する〈神術〉等、〈祭具〉に載せられない性質を持つ一部の特殊な〈術〉を除き、〈祭具〉の方こそが人々を支える主要機具として頻繁に使用されるようになっている。
そして、シーアが懐から取り出したのは、対〈封鎖錠〉用に作られた〈祭具〉で、〈術〉と術者の連結を一時的に遮断する物だった。シーア自作の〈祭具〉である。
闇神は関心を通り越し、呆れ返った。
「大したものだな。あれを突破したのか」
「実力は遥かに及ばずとも、私は〈祭具〉作りの天才であったあの兄の妹です。この程度のことは……」
そもそも、〈祭具〉を発明したのは天才術者でもあった長兄であった。彼は〈神術〉に比肩する、或いはそれ以上の力を持った〈祭具〉さえも、容易に生み出すことが出来たという。
だが、闇神は彼女が言葉の中に匂わせたもう一つの意味が気になったらしい。
「反逆者の兄か。最早今この時に至っては、その真意を隠すつもりもないということなのだな。お前がこの場所を――いや、天宮を訪れたのは、やはり〈封印〉された兄の為か」
「ええ」
星の動きから天律を読み、最初に渾神の動きに気付いたのはシーアだった。
自分以外は誰も気付かなかった。それ故に、慢心していたのかもしれない。自分なら何とか出来る。一族の恥を雪げるかもしれないと。
気が付けば父グエンを説得し、侍神候補者に立候補していた。職務を離れ天帝の帝都に乗り込む口実を得る為だ。渾神が帝都に現れることも星達が教えてくれたから。
長兄には遠く及ばないが才能に恵まれたシーアを、いずれは天界の重職にと望んでいた父王は、彼女の申し出に難色を示していたが、最後には押し切るような形で帝都に乗り込んだ。
しかし、グエンが愚かな愛娘の守護を邪神である闇神に依頼したと、神宴の後で聞かされシーアは愕然とした。
何と自分は無力なのだろう。何と自分は頼りないのだろう。取り返しのつかないことをさせてしまった。自分は何もできなかったのに。
(それでもこの事態は、好機と喜ぶべきなのかしら?)
シーアの心中を知ってか、闇神は冷ややかに問いただした。
「兄の為か一族の為かは知らぬが、兄と同じ反逆者の道を歩むつもりか? 誰もそんなことは望んではいないというのに」
「私が望んでいます」
「神である私の前でよくも……」
「けれども、貴方は天界に邪神と定められた神でいらっしゃる。……いえ、私の愚行が貴方の口から天帝や一族に知れ、それで私の身がどうなるかなど、どうでも良いことなのです。それを差し置いても許せない事実が目の前にある」
「不遜なことよ」
「何とでも仰ってください」
そうして、共に〈封印門〉を見つめた。
シーアは、嘗て最凶たる渾神をも〈封印〉したという白天人族の救世王女とは違う。シーアの実力では神は倒せない。故に天帝を抑え込めない。〈封印門〉も破れない。
ならば――。
(兄上……)
使用された時間、場所、使用した術者――その何れが異なっていても、〈封印門〉と呼ばれる〈術〉の先は全て同じ場所に繋がっているのだという。つまり、この〈封印門〉の向こう側は、兄が〈封印〉された場所と同じ。光神と今は亡き先代闇神が〈神術〉により創造した「永獄」と呼ばれる世界だ。冥神が生み出したものとはまた別の、最初の地獄と呼ばれる場所である。
〈星読〉に長けたあの恥さらしの兄も、既に渾神の動きやアミュの存在に気付いているだろう。きっと、彼女を利用して脱獄を図るに違いない。
「ごめんなさいね、アミュ。私は貴女の不幸を利用するわ」
◇◇◇
音も温度もない闇の中、頬に冷たい滴が落ちた気がした。
少女は静かに瞼を開く。
何も見えない。漆黒の闇が広がっているだけだ。
身体のどこかが地面に触れている感覚もなく、立っているのか座っているのか、寝転がっているのか逆さまになっているのか、自分が一体どういう状態にあるのか分からなかった。
ただ、ぼんやりとした意識だけがそこにあった。
(アミュ……アミュ……)
(アミュ、起きて)
懐かしい声が聞こえる。
(……だれ?)
心の内で尋ねても答えは返ってこなかった。
アミュはまどろみの中で記憶を辿る。
(『――』?)
無意識に出た言葉にアミュは首を傾げる。
(『――』って、だあれ?)
「恐らくは貴女が仕える神のことでしょう」
暗闇に白銀の輝きが一つ射し、次いで光の粒が一面に広がった。まるで夜空に煌めく満天の星々の様だ。よく見れば、見覚えのある星座に似たものも幾つかあった。
「ふふ、綺麗でしょう。まるで天界にある夜の都のよう。いいえ、きっとそれよりも遥かに儚く美しい」
背後から今度は聞き覚えのない声がする。
「星精は光神と理神の姦淫によって生まれし穢れた子供。擬似精霊達。けれど、永獄の星々は天人族随一の〈祭具〉職人が百年をかけて生み出した一級品なのですよ。彼等には宝石にも勝る価値と輝きがある。あの男のことは嫌いだけれど、この星々と大地を生み出したことだけは称賛に値します」
先程とは違う声が耳元で聞こえる。
「けれどもねえ、アミュ様。私はそれでも天界に――外の世界に帰りたいのです」
「ねえ、渾神ヴァルガヴェリーテが侍神のアミュ様」
「渾侍のアミュ様、どうか御慈悲を」
男の声、女の声、老人の声、子供の声。様々な声が森のざわめきのようにアミュを取り囲み、漸く声の主の一人が暗闇の中から姿を現した。
星明りに照らし出されたその姿を目の当たりにしたアミュは絶句する。
「酷いでしょう、この姿。昔は光精の中でも比類なき美貌と謳われた私が、今ではほら、御覧下さいな。永獄の闇の中で目は退化して小麦の粒のように潰れ、肌も髪も深海の生物のように真っ白。極め付けは地面を這いずる蚯蚓の腹の様なこの脚。細く美しい嘗ての二本脚は失われ、暗闇の宙で泳ぎ易いように進化してしまったらしいのです。ねえ、酷いでしょう? 酷いと思うわよねえ」
恐らく女性と思われるその異形の手が、両頬に吸盤のように張り付く。
アミュは小さな悲鳴を上げた。
「私を光神様の元へ帰して。光神様が統治する外の世界へ。そして、天神へこの屈辱に相応しい報いを……!」
女怪物の口が大きな漏斗のように広がり、アミュを丸呑みにしようとした。
だが、寸前でその胴が銛のようなもので貫かれる。
「俺の獲物を独り占めするつもりかい」
「渾神の神気を食らえば神族にも及ぶ力が」
「それは儂のものじゃ!」
異形達が次々と姿を現し、揉み合い、殺し合う。
恐怖で声を上げることもできず、アミュは腰を抜かしてしゃがみ込んだ。
その時、何者かがアミュの肩を叩いた。
「腰を抜かしている場合じゃないよ」
穏やかで落ち着いた青年の声だ。
「さあ、今のうちに。早く」
訳も分からず頷くと、アミュは手を引かれるまま闇の中へと飛び込んだ。
異形達の喧騒が次第に遠ざかっていくのが背中で感じられた。
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