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ホワイトランドの冬は長い。
広い大地には、数カ月をかけてしんしんと雪が降り積もる。すべての生命は息を潜め、窓枠から煌々と漏れ出る家の明かりも、鬱蒼と茂った針葉樹林に遮られている。家と家の間は遠く隔たっており、たくさんの蓄えとともに一家が閉じこもって暮らす。冬の間、ホワイトランドの住人は一日の4分の3を寝て過ごす。
リョウは窓辺においた天使の羽根を人差し指でちょんちょんといじりながら言った。年の頃は10。黒檀のように艶やかな髪と瞳は、雪のように白い肌にくっきり映えている。頬杖を突き、の外の雪景色を見ながら、天使の羽根をいじくりまわしている。
「どうして冬になると天使を飾るの?ママ。」
「ママの子供の頃からそうなのよ。」
一人息子のリョウは家族の中でもひときわ眠りが浅い。ベッドの中から、母親の寝ぼけ声が聞こえてくる。
「どうして、天使には顔が無いの?ママ。」
「それは知らないね。単なるおまじないだもの。本当の天使に子どもが連れていかれないようにってね。」
「天使が僕を攫っていくの?天使に連れ去られるとどこに行くの?ママ。」
母親はガバとベッドから起き上がり、リョウの頬を荒れた手ではさんだ。
「それはね、とっても冷たくて恐ろしいところだよ。ホワイトランドの最も寒さが厳しいところに雪の女王の国がある。彼女は氷によって生きていて、どんな天使よりも美しいのよ。そして、女王の国には天使が捕らえた子どもの魂が入っていくのよ、坊や。」
リョウは窓の外を見ながら、雪の女王の治めるはるかな国のことを考えた。そして一日中、閉じこもって過ごすこの生活のことを。ほとんどの昼を眠り、起きている時には曇りガラスに額を押しつけ、しんしんと降り積もる雪を眺め続けるだけの毎日のことを。天使の羽根はどんなにか軽いことだろう。雪の間を縫って、ひらひらと遠く遠く、誰よりも高く上っていけたら、どんなにか良いだろう。
ポンっと窓ガラスに雪玉のぶつかる音がする。冬の間中、ドームの南側にこぢんまりと据え付けられている窓ガラスは、開くことが無い。両親の様子を遠目でうかがう。ぐっすりと眠っているようだ。夜の帳が下りきるまでに、帰ってくれば大丈夫だろう。ベッドの脇のコートを羽織ると、黒塗りのドアを開け、外に出た。
「やあ、リョウ。」
「今日は遅かったじゃないか、タツキ。もうすぐ夜になっちゃうよ。」
リョウが唇を尖らせて、雪だまりを蹴飛ばす。タツキと呼ばれた少年は真冬の夜明けのように輝く金髪、好奇心の強そうなハシバミ色の瞳。物心ついた時から、タツキはリョウのたった一人の親友だった。冒険の前には、タツキが小さな雪玉を窓に投げつける。それが、二人の合図だった。冬ウサギのコートをまとい、頬を上気させ白い息を吐きながら、リョウが玄関に出ていくと、はにかんだ笑顔でタツキが迎えてくれる。最初の雪割草を見つけるのも、その年最初の蝶を見つけるのも、春一番を前の年のミモザジャムの瓶に捕まえて入れるのも、いつも二人一緒だった。
「だって、夕焼けとオーロラが同時に見られるのは今だけだもん。」
タツキはリョウの先頭に立ち、北西の方角を目指す。
半刻ほど歩くと、太陽の光が届く開けた丘の上に出た。
「ほら。」
タツキが指差す方を振り返る。西の空には、焔に包まれたカーバンクルと見紛うばかりの煌めく夕焼けが、烏の濡れ羽色をした夜に銀河をあしらったカーテンを下ろしている。北の空では、エメラルドグリーンのオーロラが悠然とたゆたっている。オーロラの目も眩むほどの青緑と、薪のはぜるような夕焼けの赤を大地に積もった雪が反射する。溢れる光の洪水の中、タツキの瞳は、くるくると移り変わる万華鏡のように色彩を反射していた。言葉は言葉にならなかった。色と光が織りなすアラベスクの中にたたずんでいるタツキを、この長く長い冬が終わるまでずっと見ていたいと思った。
「行こうか、リョウ。」
ホワイトランドの夜は、国一番の猛者でさえ足を踏み入れるのをためらうほど危険である。走る二人を追いかけるように、影と夜が忍び寄る。西へ西へ、太陽の光が届く方へと二人は走り続ける。
「遅くなっちゃったね。じき夜が来る。」
タツキが申し訳なさそうに声をかける。
「いいんだよ、タツキ。僕も前から見てみたかったんだ。危険すぎるから行っちゃダメだって、いつも言われてた。
「帰ったら、リョウのママに怒られるかも。」
「いいんだ・・タツキと見れて、良かった。」
タツキは走るペースを速めた。
「急ぐよ、リョウ。夜に追いつかれそうだ。」
リョウはゾクリと身を震わせると、かじかむ手足を懸命に動かした。ホワイトランドの闇から帰ったものは未だかつていない。蝙蝠の羽音がバサバサとリョウの耳元をかすめる。急がなければ。
「人はなぜ風景を見たがると思う?リョウ。」
唐突にタツキが尋ねる。なんだってこんな時にそんな質問をするのだろう。
「ここには何も無いもの。長い夜と深く積もった雪があるだけだ。南には、裸で海の中を泳げる国があるんだってさ。羨ましいな。」
「そうだね、リョウ。この暗く冷たい国で僕たち人間が生きていくのは、あまりにも苦しく難しい。だから、僕たちは物語を紡ぎ、歌を歌い、時に風景を必要とするんだよ。」
雪に足をとられて、つまずきそうになる。一瞬のスキが命取りになる時間だ。リョウは慌てて体勢を立て直した。闇の中から聞こえるシャドウウルフの遠吠えに怯える彼に、タツキがクスリと笑いかけて立ち止まった。
「怖がらないで、リョウ。君はさっき夕焼けとオーロラがキスする雪の大地で、自分自身を見たはずだ。光の中で君は僕のことを、そして君自身を誰よりも深く理解したはずさ。そして、そして君は・・・ずっと僕を見ていたね。」
細く滑らかな指がリョウのマフラーをなぞる。
「タ、タツキ…?」
リョウは、ドーム型の家からこぼれ出る明かりまでの距離を考えた。あの光が砂漠の蜃気楼のように、永遠に遠くにあればいいのに。
「一緒に行こうよ、リョウ。この国で生きるのはとても冷たくて、とても寂しいから。」
暗闇が、2人を包み込む。リョウの恐怖はいつのまにか消え去っていた。暗闇の中に身を委ねてしまえば、そこには感じたことのないほどの安らぎと温かさがあった。
「さあおいで。リョウ。」
タツキの細い指にリョウは手を伸ばす。指と指をからませ、どこまでも遠くに、どこよりも美しい場所に行こう。君と二人で、誰よりも高く飛んでみせよう。
ズガーーン。暗闇を切り裂き、白い弾丸がタツキを貫く。
「あ・・・?」
タツキに触れようとしたリョウの手は虚しく空を掴んだ。何が起こったのか分からず、現実を直視することができず、リョウは呆然と立ち尽くした。
「あ、あああああ!!」
タツキの体は、白い大地に吹きすさぶ吹雪とともに霧散した。
(待って、待ってよ。一人にしないでタツキ。)
指で、目で、タツキのいたところ、風の吹く方向を必死で追いかけた。止めどなく溢れる涙は一瞬で凍り、吹雪と一緒に舞った。暗闇の方へ、タツキが行ってしまった方へ、リョウは駆け出した。とその時、がっしりと背後から強い力で抱きとめられた。
「リョウ!!何やってる、早く帰るぞ!!」
「おお、リョウ!!良かった。手遅れにならないで、本当に良かったわ!!」
凶弾の主がリョウの華奢な身体を鷲掴みにしていた。
「どうしてタツキを殺したの?パパ!ママ!」
「あの子は天使だったの。いつも、家に入ってこようとしないから、怪しく思ってたのよ!ああ、とても怖かったわ!!」
リョウは必死に抵抗した。パパの腕を振りほどいて、タツキのもとへ行きたかった。
「おい、暴れるんじゃねえ!!早く家に帰らねえと、三人ともくたばっちまうだろうが。」
ガブリと父親の右手を噛み、一瞬のスキをついて父親の手を逃れた。
「パパ、ママ。僕は、家に帰るよりもタツキのところに行きたい。」
母親は、必死でリョウの姿を追う。
「何を言うの!魂をとられてしまうのよ!」
「ママ、僕の魂はずっとタツキのものだったよ。タツキがいなければ、誰が僕にきれいなものや楽しいことを教えてくれるの?」
「死んでしまえば、何も見られないのよ!」
リョウは、ゆっくりと首を横に振った。
「皆のように生きるなら、死んだ方がましだよ。タツキが投げる雪玉の音、僕はあれが聞きたくて、ずっと生きてきたんだ。」
「僕の天使はずっと、タツキの顔をしていたんだね、もう行くよ、ママ、パパ。」
「ま、待って・・・!!」
暗闇の彼方、吹雪の向こうへとリョウは消えた。この上なく清浄な魂がどうなったか知る者は誰もいなかった。
ホワイトランドの冬は長い。
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