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第1話 性別・本名不詳の私
どうして、大きいカップのブラジャーは高価なんだろう。
普通サイズと比べると、見た目はおろか、値段さえ可愛くないのは、何だか悔しいし不条理な感じがする。
私みたいなバイト三昧の普通の大学生には、とても簡単に買える代物ではない。バイト代を貯めて買った大事な一枚を、私は洗面所で手洗いして、物干し台の目立たない場所にそっとピンチで止めた。女友達から、「胸を小さく見せるブラ買わなきゃいけないって。花奈、それ、うちらへの嫌味?」と笑われて以来、この話題は大学ではしないようにしている。
大きな胸なんて、欲しくなかった。この胸のせいで、中高生の頃から、同級生や先輩たちだけでなく、道行く知らない大人の男性からも、いやらしい視線で見られる。細身のシャツを着ようとすると、だいたい布地が不自然に引き攣れて、ボタンとボタンの間から中が見えてしまう。
私の服選びの基準は、着たいかどうかではない。胸が収まるか、目立たないか、ただそこ一点だった。胸が大きくて良いことなんか、あるわけがない。
大学に着ていく服だって、いつも地味だ。今日は胸が目立たないゆったりしたスモック風ブラウスを着る。暗い色、身体の線がはっきり出ない服が一番無難だ。モカ茶色のブラウスに、黒のワイドパンツを合わせた。
地下鉄に乗ったら、スマホを手にして、自分のSNSをチェックした。私のアカウント名は『ほし』。
SNSでは、映画の感想を書いている。地方では、私が好きなミニシアター系映画の上映はそれほど多くない。だから、毎月、バイト代を握りしめて大学生協に行き、今月は何を観ようかとワクワクしながら前売り券を買う。そして、観終わったらSNSに感想を綴り、インターネットで繋がる見知らぬ人たちと議論を交わすのが、私の一番の楽しみだった。
地下鉄の中でも、つい顔が綻んでしまうから、俯いて髪で顔を隠す。私にとって、ストレートの黒いロングヘアは、周りから自分を隠す防具だった。
先日私が観た映画に、SNSで他の人はどんなレビューを書いているか、チェックした。素早く何本か斜め読みして、興味深そうな記事に当たりを付けて読み始めた。
私が目を付けたレビューの書き手は、映画監督志望らしく、作り手ならではの目線で、カメラや編集の妙といった観点から感想を書いていて読み応えがあった。『いいね』アイコンをクリックした。その人の書いている幾つかの記事をざっと読んでみた。どれも面白かった。
どんな人だろう?
軽い気持ちで、その人のアイコンをクリックし、プロフィールを確認した。本人のものなのだろうか、片目だけをアップにしたアイコンが印象的だった。映画監督志望で、東京の大学生のようだ。アカウント名は『ミナミ』。これだけでは男性か女性かも分からないけど、文中の一人称は『僕』だったので、おそらく男性なのだろう。ミナミさんのアカウントをフォローすることにした。
数時間内に、ミナミさんから、お礼のメッセージが届いた。
《ほしさん、初めまして。僕の記事に『いいね』してくれて、ありがとうございます。SNSで、ほしさんの映画レビューも読みました。文章上手ですね。羨ましいです。それと、たくさん映画観てるんですね。映画の好みは、僕と割と似てると思いました。また、ほしさんの記事の更新、楽しみにしています。僕も、ほしさんをフォローさせてもらいました》
私からも返信を送った。
《映画を作っている方からフォローしてもらえるなんて光栄です。ミナミさんは今どんな映画を作ってるんですか? 単なる一観客として好き勝手に呟いていますが、どうぞよろしくお願いします》
《ほしさん、こんばんは。返信、それと僕の製作中の映画にも興味を持ってくれて、ありがとうございます。製作中の作品は、他人の夢の中に入り込み、他人の夢を覗くことを仕事にしている男の物語です。》
この日から、彼とメッセージを交換するようになった。
彼は、誰もが知っている頭の良い私立大学に通っている四年生だと教えてくれた。三年生の私より一つ年上なのかと思ったら、映画作りに熱中するあまり留年しているから二歳年上だと打ち明けられた。
私の映画評に対して、さり気なく作り手としての観点からコメントしてくれるので、映画を観る楽しみが増えた。それに、私の感性や表現を褒めてくれるのも嬉しかった。インターネットの片隅でコツコツと書いていた私の文章を見つけて認めてくれ、知的好奇心をも満たしてくれるミナミさんは、私にとっては、ちょっと遠い憧れの人だった。
《東京みたいな都会で、映画作ってるなんて、ミナミさんはカッコ良いですね》
私が憧れを込めながらも、少し引け目も感じつつ、そう言うと、
《僕は田舎者ですよ。讃岐うどんって知ってますか? 僕は、それで有名な香川県出身です。何にもないところですが、うどんは美味しいです。ほしさんは、どこに住んでるんですか? SNSの写真から、北のほうかな? と想像しています。あと、もし良かったら、本名を教えてもらえませんか? ちなみに僕は、南新太と言います》
ミナミさんに、本名と女性であることを打ち明けるかどうか悩んだ。
私は、これまでSNSやネッ友には性別を明かしていなかった。文章では一人称を排していたし、掲載する写真も、若い女性が好きそうな甘い色合いは避け、風景、建物など性別不詳な写真ばかりにしていた。個人的なメッセージのやり取りも、殆ど経験がなかった。
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