24人が本棚に入れています
本棚に追加
第2話 小宮花奈、女子大生
ミナミさんに、本名と女性であることを打ち明けるかどうか悩んだ。
私は、これまでSNSやネッ友には性別を明かしていなかった。文章では一人称を排していたし、掲載する写真も、若い女性が好きそうな甘い色合いは避け、風景、建物など性別不詳な写真ばかりにしていた。個人的なメッセージのやり取りも、殆ど経験がなかった。
彼にどう返信するか頭を悩ませながらも、外出するためお化粧をし、仕上げに、お茶と森の香りのオードトワレを一噴きして身に纏うと、一階から母の尖った声が飛んできた。
「花奈!! どこ行くの?!」
返事をせずにいたら、彼女は怒りをアピールするかのようにドスドスと足音を立てて階段を上り、二階の私の部屋までやって来た。険のある表情だった。まるで般若だ。
「あんたの香水、一階まで匂ってるわよ。そんなに強い匂いさせて、どこに出掛けるの」
粘っこく詰問され、私は苛々した。幾ら部屋のドアが開いていたからって、たった一噴きのトワレで、一階から怒鳴られなければいけないほど匂うものなのだろうか。
「……大学に行くだけだよ」
ぶっきらぼうに言い放ち、母の横をすり抜けて自分の部屋を出た。
大学三年生の秋が深まりつつあった。
就職活動の準備を始める時期が来ていた。大学の就職課で、セミナーや対策講座の開催日程などをチェックしたり、何冊かのノウハウ本を斜め読みしてから帰宅すると、母は台所で夕飯の支度をしていた。
「ただいま」
一応声を掛けると、弱弱しく微笑みながら彼女は振り返った。
「おかえり。今晩は餃子にするんだけど、包むの手伝ってくれる?」
私は黙って頷き、手を洗ってから、餃子を包み始めた。
「今日は、きつく言ってごめんね」
母のほうから上目遣いにおずおずと謝ってきた。
「お母さんね、香水を付けている女の人に、あんまり良い印象がないのよ。昔、会社勤めしてた時、美人なんだけど強い香水を付けてる人がいてね。その人が部屋から出て行った後でも『あっ、さっきまであの人がこの部屋にいたんだな』って分かるくらい。その人、職場の既婚男性の先輩と不倫してたのよ。何て言うか、女を前面に出し過ぎるって言うかね……。もちろん、当事者は周りに隠してるつもりなのよ。でも、隠しても、何となく分かるのよね……。」
母が会社勤めしていたのは、父と結婚するまでの独身時代のことで、二十年以上も前の話だ。
女としての私を、母が目の敵にしていると感じたのは、香水のことだけではない。最初は、ブラジャーだった。母が買ってくるものは、明らかに私の身体に合っていなくて窮屈だったが、恥ずかしくて何も言い出せなかった。
大学生になり、初めて一人でデパートの下着売り場に足を運んだ。母よりも年上と思しきベテランの女性の店員さんに採寸してもらい、以前よりふたサイズ大きいカップが私の身体には丁度良いことを教えてもらった。
「立派なお胸だもの。ぴったりの下着をつけて、綺麗に見せなきゃ勿体ないわよ」
にっこり微笑んでくれた店員さんは、出るところはきちんと出て引っ込むべきところは引っ込んだ、同性から見ても魅力的な体型をスーツに包んでいた。
私が以前とは違うサイズのブラジャーを自分で買い、自分で洗濯していても、母は何も言わなかった。取り込むときに他のものと一緒に畳んでくれているから、以前とは全然違うサイズであることは分かっていたはずだ。
しかし、私の胸が標準以上に大きいということは、母にとっては黙殺すべき事実のようだった。
母の言い分は、本当に娘を幸せにしようと思って言っているのか、自分より若い同性に対する敵意なのか分からず、いつも混乱した。
「小宮さんの奥さんは良妻賢母だ」
母は、いつも取引先や近所の人から褒めそやされていた。
中小企業の社長である父を経営面で支え、子どもの私は地元で一番偏差値の高い高校、大学に進学していることを引き合いに出し、みんなが口を揃えて母を褒め称えた。
小柄でほっそりした体型と透明感のある白い肌の持ち主で、年齢より若く見えることも、皆の羨望の的だったのだろう。
しかし、彼女は、必ずしも幸せそうには見えなかった。
定期的に発作を起こすように陰気になり、苛々した神経質な表情を浮かべているようにも見えた。
それはきっと高圧的な父の態度に辟易しているからだろう。私もそんな両親を見るのは辛かったし、母の感情のゴミ箱でいるのも嫌だった。母みたいな生き方をしたくない。早く就職して自立して、この家から出たい。その思いは日増しに強くなるばかりだった。
《私の本名は小宮 花奈と言います。SNSでは、女性だと明らかにしていないので、驚かせてしまったらごめんなさい。ミナミさんの想像通り、北国の札幌に住んでいます。こちらは一年の半分が冬です。雪もたくさん降るし寒いけど、魚介や野菜が美味しいです》
思い切って、ミナミさんに、自分の本名と女であることを打ち明けることにした。
どうせ、単なるネッ友の一人だ。
これで態度が変わったり、出会い系みたいなメッセージを送ってくるようになったりしたら、彼のアカウントをブロックすれば良いだけだ。
母との小競り合いの苛々を鎮め切れておらず、やけっぱちのような、彼を試すような気持ちでメッセージを送信したものの、一方では、彼とのメッセージのやり取りに、頬を撫でる涼やかな初夏の風のような心地よさを感じてもいたのも事実だった。どうか変わらないで欲しいと祈るような気持ちも入り混じり、私の心は乱れていた。もやもやしながら眠りについたら、翌朝、ミナミさんから返信が来ていた。
《ほしさん……いや、今後は、花奈ちゃんって呼びますね。
花奈って、可愛い名前ですね! 実は僕は、ほしさん=花奈ちゃんは女性なんじゃないかと以前から何となく思っていました。ただの勘だけどね。SNSや他の人には内緒にします。
僕は今日、地図アプリで札幌を眺めていました。こんな街で過ごしてるんだなぁと思いました。僕はまだ北海道に行ったことはありません。いつか、花奈ちゃんが生まれ育った札幌の街を見てみたいです》
ミナミさんの私への態度は、変わらなかった。重大な秘密を告白したつもりだったので、拍子抜けした半面、男女関係なく親しくしてくれ、私の意見や考えを尊重してくれる人だと分かって、ホッとした。
本名を明かし合って以来、彼からの呼び名が『花奈ちゃん』に、私からの呼び名は『ミナミくん』へと、お互い少しだけ親しみを増した。それまで通り日々の他愛ない出来事を互いに送り合っていたけれど、性別をオープンにして、気持ちが楽になったし、メッセージも以前より書きやすくなった。例えば、授業の後、友達とパフェを食べたなんて以前は書けなかったから。
映画評の議論では変わらず対等に接してくれたけど、それ以外では、言葉の端々に優しさや思いやりを感じるようになった。
《花奈ちゃん、遅くまでゼミお疲れ様。女の子一人での夜道だから気を付けて!》
《お風呂上りにメッセージくれるのは嬉しいけど、花奈ちゃん、髪長いんだよね? 冷えないように、ちゃんと乾かしてね》
女として大切にされるってこんな感じなのかな……? 少し気恥ずかしいような、くすぐったいような嬉しさで、きゅんとした。
リクルートスーツを買ったと報告したら、彼から返信が来た。
《僕も先週リクスー買いました。これ以上留年させられないって親に怒られて、就活することになりました。これまで普通の会社勤めなんて考えたことなかったから、途方に暮れてます。花奈ちゃんは、就職したい業界や会社は、もうある程度決めましたか?》
《私は文章を書くのが好きだから、マスコミ志望です。ミナミくんも、映像作りをしていたから、テレビ局とかはどうですか?》
《アドバイスありがとう。そうだね、僕も映像との接点を持ち続けられたら良いな。二人ともマスコミ志望、お互い頑張りましょう!》
好きな映画や食べ物など何気ない会話から始まり、出身地や本名といった個人的な情報を交換し、就職活動という人生の重大事を同時に迎え、互いに不安や悩みを打ち明け合うようになって、ミナミくんは、私にとって一番大切な人になっていた。
全く実生活では面識がない相手で、文字だけでコミュニケーションを取っていたから、しがらみがなくて逆に話しやすいのかもしれない。
そんな穏やかな、ほっこりするやり取りが続いていたある日。大学のコンピューター室にいると、ミナミくんからSOSがあった。
《ちょっと今、落ち込んでいます。
花奈ちゃん、電話しても良いですか?
文字だけでなく、花奈ちゃんの声を聞きたい。励ましてもらえたらなぁ、なんて。情けないけど、今はそんな気分です》
最初のコメントを投稿しよう!