第3話 ハリネズミのジレンマ

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第3話 ハリネズミのジレンマ

 これまで一度も電話で話したことのなかった彼からの申し出に、私の胸はふるえた。嬉しいような、不安なような。  やたら手が汗ばんで、うまくフリック入力ができない。デニムのお尻に手を擦り付けて何度か汗を拭わなければいけないほどだった。 《電話、良いですよ。いつ?》  緊張のあまり、ものすごく素っ気ない文面になった。 《今は?》  すぐに彼から返事が返ってきた。  私が可愛いウサギが頷くスタンプを送るや否や、彼から通話が掛かってきた。コンピューター室から廊下に出て、応答ボタンをふるえる指でタップした。 「……もしもし。ミナミです。花奈ちゃん?」  どこかあどけなさすら残っている、高めの柔らかい声音だった。 「……はい。花奈です」  緊張して、喉の奥に何か詰まったかのような、変な声しか出ない。 「……声聞くの、初めてだね。急にごめん」  彼の声は、ちょっとナーバスになっているように、おずおずとしていた。  優しくてデリケートな人だ。彼の書いた文章を読んでいる時にも薄々感じてはいたが、声を聞いて、より明確に彼の性格が浮き上がってきたように感じた。彼の息遣いが電話の向こうから伝わってきて、急激に生身の人間としての立体感を増し、ドキドキした。 「ううん。びっくりはしたけど。何があったのか、そっちのほうが心配で」  彼の心配をしているうちに、どうにか喋れるようになった。 「……うん。俺、彼女がいたんだ。でも、今日振られた。それで凹んでる。世界中の女の人から拒絶されたような気分になってさ。友達の花奈ちゃんには拒絶されてないって確かめたくなったっていうか」  ミナミくんに彼女がいたと聞いて、頭を鈍器で突然殴り付けられたような衝撃で、目の前がチカチカした。同時に、ショックを受けた自分に驚いた。 「そうだったんだ……。辛かったよね? どのくらい付き合ってたの?」 「付き合ってたのは一年ちょっとかな。映画製作の過程で色んな人と知り合ったんだけど、その中の一人だった」 「そっか。……ていうか、ミナミくん。いきなり、すごい情報量だよ。急に慰めろって、けっこう無茶振りだよ」  私は少しおどけて見せた。急に大量の情報が入ってきたことを言い訳にして内心の戸惑いを隠し、うまくリアクションできない自分を誤魔化した。 「別れた理由は何だったの?」 「他に好きな男ができたんだと思う。表向きは、映画製作や就活で俺が忙しくて、大事にされてる感じがしないって言ってたけどね」 「……それ、ひどいね。ミナミくんが、一番好きな映画と、就活頑張ってる時に、他の人に目移りしたなんて」  私は、彼が頑張っている間に余所見(よそみ)した元カノに対して憤慨(ふんがい)した。自分が大切にしている人が傷付くのは、辛かった。 「花奈ちゃん優しいね。(かば)ってくれるんだ」  電話の向こうで、彼が軽く微笑んだような気配がした。 「……だって、好きな人には、楽しそうで幸せでいて欲しいって思うものなんじゃないの……?」  もはや、私は、自分が彼に対して抱いている気持ちを吐露していた。  喋りながら自分でそのことに気付き、動揺した。私の声はふるえ出した。ただのネッ友だったはずなのに。いつの間にか私は彼を男性として意識していた。 「……その通りだね。だから、元カノが他の男を好きになったなら、俺とは別れたほうが良いんだろうなと思って」  今では、振られた彼のほうが落ち着いていて、取り乱している私を(なだ)めるような優しい声だった。そこに元カノへの深い愛情を感じた。 「ミナミくん、お人好しすぎるよ……」  そこまで彼から想われている元カノが羨ましかった。そんな深い愛を、友達として聞かされるだけの自分が悔しくて切なかった。私は涙ぐんでいた。 「俺のために泣いてくれてるの……?」 「知らない。そんなの」  私は不貞腐れたように言ったが、彼の言葉を認めたようなものだと、自分でも思った。  翌朝、彼からお礼のメッセージがきていた。 《昨日は、僕の話を聞いてくれて、ありがとう。  電話ではカッコつけて、冷静なフリをしてたけど、他の男のほうが良いって元カノから(ほの)めかされたのは、実は、すごいショックでした。なので、花奈ちゃんが僕の映画バカをフォローしてくれて、傷心を思いやって涙まで流してくれたことは、すごく嬉しかったです。  それと、あんなキッカケではあったけど、初めて花奈ちゃんの声を聞けたのも良かったです。花奈ちゃんって、きっとこういう声、話し方なんだろうなって僕が想像していた通りでした。落ち着いてて、しっかりしてるというか。文字だけでも、性格って伝わるものですね。(ちなみに、気付いたか分かりませんが、メッセージやSNSでの一人称は『僕』ですが、普段喋る時は『俺』になります。)  声を聞いたら、ますます花奈ちゃんってどんな子だろうって気になっています。  エロオヤジみたいで何だかな~って、今まで遠慮してたんだけど、良かったら花奈ちゃんの写真を送ってください。……女の子にリクエストするだけなのは失礼なので、僕の写真も勝手に送ります》  メッセージの後には、たくさん写真が添付されて送られてきていた。  彼の斜め角度からのポートレートでは、SNSのアイコンにもなっている黒目がちのくりっとした大きな目が、顔全体の中で強い印象を放っていた。びっしりと目を取り囲む長い睫毛。弓形の眉、細めの鼻柱。声の感じから、今時の若者、しかもまあまあイケメンなんじゃないかと思ってはいたけど、予想通りだった。特に顎が細めで、繊細で若々しい。  彼のポートレート以外に、彼の生活圏の中の風景や、彼の部屋と思われる室内など、私では思い付かない構図や日常の切り取り方に感心した。さすが映画監督志望だ。  早速、自分もと、スマホのカメラロールを覗いてみたが、あんまり可愛く写っている写真がない。  柄にもなく一生懸命服を選び、髪を整え、お化粧もいつもよりしっかりして、なるべく自然に見えるように、何枚か自撮りした。  ペットの猫や、大学の構内で友達とはしゃいで撮った何枚かの集合スナップと、さっきの自撮りの中で一番ましな写りの顔写真を最後に添付して、ドキドキしながら送った。 彼とは色んな映画の話をしたけど、恋愛に関連する話は殆どしていなかったことに気付いた。  どんな女性がタイプなんだろう? 私のこと、どう思うんだろう?  ミナミくんから返信が来るまでの二、三時間はものすごく長く感じた。そわそわと、何度もスマホを取り出した。  友達は何も言わず見守ってくれていた。私が昨日受けた面接が、かなり志望度の高い会社だったから、私が面接の結果を気にしていると勘違いしていたようだった。  ネッ友に初めて自分の顔写真を送って、感想を待つ時の気持ちは、就活で面接の結果連絡を待つ時の気分と似ているかもしれない。  私は、この人に選んでもらえるのだろうか? 期待と不安が入り混じった気持ち。 《写真ありがとう。僕の中の花奈ちゃん像が、更に立体的にリアルになりました。色白なところは、北国の女の子のイメージ通りでした。ストレートロングの黒髪、厚めの前髪が印象的で、大きくてくりっとした目も含めて全体的な第一印象は可憐なんだけど、目力が強い。意志の強さとしっかりした性格が、目に出ていると思いました。あと、思っていたより、若かったです(笑)悪い意味じゃなくてね。純粋さを感じました》  若さと目力……。これって、女として好感持ってもらえたのかなあ?  微妙。可憐と言ってくれたから、悪い印象ではなかったんだろうけど。  昼休みの学食でミナミくんから届いたメッセージを読んでいたら、いつの間にか顔が綻んでいたらしく、友達に突っ込まれた。 「花奈、面接の結果? それとも、例のネッ友から?」 「ネッ友からだよ」 にやけた顔のまま私が頷くと、友達は呆れたように言った。 「一度も会ったことないんでしょ?」 「別に良いじゃん。彼氏とか、そういうんじゃないもん」  私がツンとすると、友達は困ったように聞いてきた。 「毎日のようにやり取りしてるんでしょ。その頻度は、彼氏並みだと思うよ? 花奈は、そのネッ友君に会いたいとは思わないの?」 「……別に。会わなければ、変な目で見られたり、変なことされたりしないし」  頬と声が強張っているのが自分でも分かった。  友達は一つ溜息をつき、同情するような目で私を見つめた。 「……花奈の気持ちは分かったよ。だけど、男の人みんなが、女の人の顔や体しか見てない、エッチなことしか考えてないって訳じゃないからね」  私は無言で俯いた。  友達が心配するくらい、私は男の人に対して臆病だった。  一番身近な異性である父の前では、いつも委縮していた。彼は、口ごたえや反論を許さない人だったからだ。  家の外に出ると、大人しそうなルックスと大きな胸のせいで中高生の頃から性的な目線に晒され、痴漢に遭うことが多かった。そんなことの積み重ねで、男の人から目線を向けられたり話し掛けられたりすると、反射的に身体が(すく)み、顔は強張った。 そうしているうちに、いつしか「小宮 花奈は男嫌い」のレッテルが張られた。
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