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綿あめの思慕
「バッシュ」
準夜勤の定時まで、あと十分と言うところで名前を呼ばれ顔を上げれば、上司である侍従長のジョージ・スペンサーが指先で招いている。
チェックしていた写真の使用申請書に電子サインを入れ、手早く筆頭侍従あてに送ると、バッシュは事務所の奥にあるジョージのブースへ向かった。
「お待たせしました」
ベストのボタンを留めながらデスクの前に立つと、ジョージは監督生のような目でバッシュの全身を見た。事務所内でベストを緩めるくらいは許容範囲のはずだが。
バッシュがすまし顔でいると、机上にあった封筒を差し出される。
「これをベイカーへ。殿下のご署名が必要な書類だ」
「お預かりします」
この場合の『殿下』はバッシュが仕える王太子ではなく、弟の第二王子を指す。現在、第二王子は離宮に居住しているため、データ以外で必要なものの行き来は互いの侍従が担っている。なかでもバッシュがメッセンジャーに選ばれるのが多いのには、もちろん理由があった。
「殿下のご様子はお変わりないか?」
「はい。離宮へ移られてすぐ軽い風邪を召されたようですが、現在は回復されておいでです」
「なにかあれば、すぐ報告を。ベイカーにもそう伝えてくれ」
「承知いたしました」
うなずくと、軽く手を振って退出を許可された。
ブースを出て扉を閉めると、意図せずため息が出る。
ジョージとの付き合いは、バッシュが王宮に就職したときのメンターだったことに始まる。当時の彼は宮殿のフットマンを監督する立場にいて、仕事への姿勢や知識など、幅広く薫陶を受けた。
それから十年ほど。バッシュは王太子付きの侍従になり、ジョージも侍従長として王室に仕えている。ただし、ふたりの関係にはここひと月ほど、若干の溝があった。
仕事に差し支えるような不和とまではいかないこのやりづらさは、互いに譲るつもりのない以上、時間が解決するのを待つしかない。
間違っても封筒に折り目など付けないように気を付けて椅子に戻れば、先ほどの申請書が決裁済みで返信されてきていた。申請元の広報部に書類のデータを送り、急ぎのメールだけざっと流し見てから電源を落とす。
黒いカバー付きのタブレットを鞄に入れたところで、バッシュと交代する夜勤担当の同僚が椅子を転がして来た。
「よう、お疲れ。きょうも定時退勤だな」
「カルバートンまでドライブだよ」
「あぁ、人気者はつらいねぇ」
王太子の成婚の儀に関係して、バッシュが第二王子のもとへサポートに入っていたことは周知の事実で、同僚たちからはその縁がもとで離宮に出入りする伝達係に指名されたと思われている。
「なぁ、来週の夜勤なんだけど、また代ってくれないか」
「フレッド、悪いが他をあたってくれ」
「なんだ、前は自分から声かけてまで代ってたのに」
「サービス期間終了だよ」
目を丸くする同僚に、頭を振って見せる。
たしかに先月まで、バッシュはすすんで夜勤を引き受けていた。ただそれは気がかりな相手に電話をかけるための口実で、いまはもう必要ない。
「あ、さてはついに犬でも飼ったのか?」
「宿舎はペット禁止だ。忘れたのか?」
「じゃあまさか、恋人か? おいおい、どんな相手だ?」
ばんばん背中を叩いて来る手をかわして、バッシュは車のキーと鞄を持って立ち上がった。
「さぁな。守秘義務の重要性は分かってるだろう?」
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