前編 地を這う鳥

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dd292763-14ea-421d-ab3e-63d617736695     ランチタイム後の店内は雑然としていて、今日の日替わり定食だった生姜焼きの匂いが漂っている。  つい先ほど昼の営業が終わったばかりのテーブルには下げ残したお膳や食器がいくつか残っていたが、洗い場まで持っていくのがどうにも面倒だった。  僕はひとつ息をつき、カウンターに腰かけてウーロン茶を口に含む。  それから重い腰を上げ、思いもよらぬ来客の多さに忘れかけていた空腹を満たすために遅めの昼食にありつこうと冷蔵庫に手を伸ばした瞬間、スマホが沙也からの着信を知らせ、僕は思わず声を出して伸ばした手を引っ込めた。  半年ほど前に、本気で沙也を救いたいなら向こうからかけてくるまで電話するな、などと帆花が予言めいたことを言っていたが、僕はプライドの高い沙也が泣きついてくるなどあり得ないと反論した。  そしていま、帆花の予言どおりに電話は鳴っている。  しかもあのときの予言には続きがあった。  もし沙也が電話をかけてきたとしたら、きっと傷ついて泣いているはず。  僕はしばらく躊躇ってから大きく息を吸い込み、帆花の言葉を振り払うようにスマホに手を伸ばした。 「久しぶりやな。」  そう言い終わるのに合わせるようにして沙也が声を上げて泣く音が鼓膜を揺らし、僕はラジオDJというのは未来が読める職業なのだろうかと少しだけ怖くなった。  子供の頃はひどい泣き虫だった沙也が、恋人になってから僕の前で泣くのはこれが二度目だった。  僕は懐かしさに目を閉じ、昔そうしたようにうんうんと頷きながら、大丈夫や、ちゃんと聞いとるぞ、と繰り返す。  そうしてしばらくすると沙也の嗚咽はゆっくりと治まってゆき、鼻をすする音が響きはじめたところで不意に、明らかに冷静を装った声が聞こえた。 「ああそうそう。ところで、元気?」  おいおい、今の今まで泣き散らしとったお前が言うか?  反射的に関西人のクセが出そうになるのを抑え、元気やで、とだけ答えた。 「仕事は?」  相変わらずの雑な物言いが、どこか嬉しかった。 「まあ、ぼちぼちや。」  沙也は? と聞きそうになって慌てて止めると、僅かな沈黙があった。 「ねえ、なんで私のことは聞いてくれないのよ。薄情者。」  電話の向こうで、あっ、という小さな声が漏れたが聞こえないふりをした。 「……なんや沙也、仕事に行き詰まっとんのか? 話してみい。」  帆花からは、沙也が女優にするという実に陳腐な言葉のエサで事務所から体よく業界関係者に人身御供として差し出されていると教えられてはいたが、恐らく高みから見下ろすことに慣れ過ぎてしまっていた沙也にはそれを理解できる心の余裕など無かったはずだ。  きっとあの頃のように、どれだけ汚れたとしても自分は高みへ上り詰めるのだ、という、執念にも似たプライドを利用されていたのだと思う。  そして電話を寄こしたということは、きっと沙也は過ちに気づき、自らが育てたプライドを越えるほどの後悔のなかで自分を苛んでいるはずだ。  その葛藤を物語るかのように長い静寂が続いたが、やがて沈黙に耐えきれなくなったのか、沙也がぽつりとつぶやいた。 「あのね、私、事務所クビになっちゃった。」 「なんやって!?」  想定外の答えが返ってきたことで今度は僕が言葉を失った。  それと同時に、頭はフル回転でふたりで過ごした思い出を再生しはじめる。  子供の頃から沙也は泣き虫のわりに努力家で、誰とでも笑って話すような明るい存在だった。  恋人という関係になってからは沙也が素敵だと言ったものは僕も気に入ったし、僕が美味いと言った食べ物は何だって沙也は目を細めて美味しいと言ってくれた。  そんな沙也のいちばんの望みはアイドルを卒業したら僕と結婚することだとよく言ってくれていた。  僕はできることなら一日でも早くアイドルという夢から僕の目の前に降りてきて欲しいと願いながら、それでも沙也と結婚する準備として板前の修業に精を出した。  しかし沙也の中には雑誌のグラビアを飾ったのを切っ掛けに歪んだプライドが芽生えてゆき、それから次第に周囲を見下しはじめた。  その結果として当たり前のようにメンバー内に敵を増やし、その連鎖に振り回されて周りを蔑むことに慣れた沙也の表情は、日に日に輝きを失っていった。  思えば沙也と僕の間には、ぴたりと合った波形が確かに存在していた。  そのふたつの波がいちばん高い場所で重なり合うのを感じた、あの雑誌を片手にはしゃぎ回った時間こそが僕が最も幸せだった数秒間だったかもしれない。  それからの沙也は、蔑みの対象をメンバーからやがて関係者へと広げ、メディアへの露出が増える頃には嬉々として自分を支えてくれるファンですら見下すようになっていた。  僕は何度かそれをたしなめたが沙也は次第に僕の言葉に耳を貸さなくなり、その一方でほとんど唯一の味方であった僕への精神的・肉体的依存が増えていった。  僕は沙也がゆっくりと壊れていくのが怖くなり、予定よりもすこし早かったが、芸能界を離れて結婚してほしいと伝えるために東京湾のサンセットクルーズに誘った。  運よく乗客はまばらで、デッキの上はほぼ貸し切りのようなものだった。  それを良しとしたのか、夕焼けを切り取るように林立する美しいビル群を眺めながらもなお、沙也は僕の隣でファンの悪口を並べていた。  アイドルになんてならなければ……。  沙也がプライドと侮蔑にまみれた羽根を広げて飛び回る東京という街に対して僕が憎悪を抱いたそのとき、前触れもなく目の前の景色は美しい夕暮れから無機質なものへと変わった。  それとともに沙也と一緒に東京を離れたいという抗しがたいほどの激情が胸を突き、その思いは無意識のうちに僕の頬を涙となって伝っていた。  突然のことにどうしていいか分からないまま横を見ると、沙也も驚いたような表情でぼろぼろと涙をこぼしていた。  僕は、沙也が僕と同じ景色を見て同じ思いになってくれたことが嬉しくなり、人目も憚らずに沙也を抱きしめた。  地元に帰って僕と結婚してほしい。  そう言うよりも一瞬だけ早く、想像もしていなかった言葉が僕の鼓膜を通り抜け、胸のいちばん奥にある温かなものを凍り付かせた。  これからもアイドルとして上に行くから、和斗も応援していてね。  僕は耳元で泣きじゃくる沙也の熱を感じながら、このとき初めて別れを意識した。  そこから先の会話は頭をすり抜けてしまっている。  ただはっきりと分かったのは、僕は東京という人と人が近く、心と心が遠い海の中ではこれ以上呼吸ができないということだった。  逼塞し、澱んだ水の中でそれでも未来の夢を求めながら泳ぎ続けるには、僕のエラはあまりに小さすぎた。  それでも僕は沙也が好きだった。  それと同時に、例えどれだけ自分と違う場所で輝こうとも、沙也が帰る場所は自分と、僕たちが生まれ育った故郷だけだという根拠のない自信があった。  クルーズが終わり、その帰り道の商店街で僕は魚屋の店頭に並ぶ立派な鯛を見つけた。  値札の横には見慣れた僕たちの地元の名前が書かれてあった。  僕は沙也と別れたくはなかった。  だから少しでも沙也に故郷のことを思い出してもらうために、賭けに出ることにした。  僕はその鯛をさばき、沙也と長い時間をかけて故郷の話をしながらふたりでお造りなどをつついた。  しかし沙也は僕の作った料理は美味しいと繰り返しながらも地元のことに話が及ぶたびに言葉に詰まり、私はあんなさびれた街よりも東京が好きなんだと言いながら満面の笑顔を僕に向けた。  和斗と一緒にずっと東京にいれたらいいな。  沙也が何気なく口にしたその一言で気持ちの固まった僕は、それでも沙也をアイドルという黒い夢から覚ますことが諦められなかった。  僕はこれが最後のチャンスだと心に決め、東京の放送局に就職していた同級生の帆花にこれまでのことを話し、沙也とできるだけコンタクトを取って悩みを聞いてやって欲しい、沙也が夢から醒めて地元に戻るように仕向けて欲しいと頼み、後悔を引きずりながら東京を離れることにした。  この街へ戻る東京駅のホームで、僕はようやくふたりの間にあったものを悟ることができたのかもしれない。  僕と沙也とでは、住む世界も目に映る景色も違いすぎた。  沙也は大空を舞いながら水面を見下ろし、僕は水面から空を仰ぐ魚に過ぎなかったのだ。  別れの朝、部屋を出るときに見た沙也の凛とした表情がゆっくりと記憶のなかで霧散してゆくなか、思い出と現実がない交ぜになった僕の脳に沙也の弱々しい声が延々と響いていた。 「自業自得だと分かっているけど。」 「東京ってこんなに冷たいんだって、初めて気づいた。」 「私の足元には何もないんだよ。その街を離れてからずっと。」  いくつもの言葉を使い分けてはいたが、沙也が仕事を失ったこと以上に東京という街の冷たさに気づき、ひどく苦しんでいることだけは手に取るように分かった。  きっと沙也もあのときの僕のように、逼塞した東京という街そのものに疲れ果ててしまったのだろう。  そこに思い至った僕に帆花が、今やで、と囁いたような気がした。  事務所という束縛を失った今の沙也にだったら、もしかしたらあのとき僕が見たのと同じ景色を見せられるかもしれない。  小さいけれど希望が芽生えたことに思い当たった僕は、兼ねてからの計画を実行に移すべく手元にノートパソコンを引き寄せながら、できるだけ強い口調で電話の向こうに話しかけた。  目の前の画面には、次々と全国の天気予報が映し出されてゆく。 「よし、東京は晴れやな。ええか沙也、今から僕が言うこと、よお聞いとけ!」  電話の向こうで沙也が息を呑むのが分かった。 「なによ大きな声だして! 東京が晴れ? あんたいきなり何……」 「やかましいわ、黙って聞いとけ!」  僕は大急ぎでパソコンを操作しながら、すこし驚きの混じった沙也の言葉を遮った。 「今、予約……よっしゃ取れた! ええか、今日の夕方、例の東京湾クルーズ覚えとるやろ? あれに乗れ。 やかましいわ、ええから乗れ。 そんで夕日を眺めたとこあったやろ? そこ着く前にビデオ通話をかけてよこせ。ああそうや。ええな? ……ええから素直に、うん、て言え!」  もう一度、必ずビデオ通話やぞ、と念を押してから、まだ何かが聞こえる電話を強引に切った。  僕は大急ぎで店を片付けると、夜の営業を休む旨を書いたボードを店の前にくくり付けてからもう一度スマホを手に取った。  仕事中でないことを祈りながら帆花の名前をタップする。  運よくすぐに、どしたん? という帆花の声が聞こえた。  僕は喰いつくように電話に向かって話しかける。 「沙也から電話があった。……お前の予想どおり、泣いとった。」 「そっか、やっぱり泣いとったか。……で、沙也はどない言うてた?」 「自業自得やとか東京は冷たくて辛い言うとった。なあ帆花。僕は、今があいつを東京から開放してやるチャンスやと思う。」  ここで初めて、少しの間があった。 「うん、私もそう思う。早く開放してあげ。ホンマ、今やで。」 「そう思って、もう動いとる。今日の夕方の東京湾クルーズを予約した。」 「なんやカズ、今から東京来るんか?」 「ちゃうわ! 沙也ひとりで乗ってもらうねん。ほんで僕が見たあの夕焼けの景色、今やったら沙也にも理解できるんちゃうやろかって。ほんで僕はあの山の公園に行って、そこからテレビ電話で沙也と話す。……どうやろ。」  電話の向こうで帆花が小さく唸るのが聞こえた。 「そっか……。カズ、あんた凄いな。私も何かええ方法ないかって考えとったけど、浮かばんかった。うん、その方法がええと思う。……賭けやけどな。」  僕は思わず言葉を飲んだ。 「賭けでもなんでもええ。沙也の夢を醒ますためにお前とふたりで少しずつあいつを変えてきたんや。最後は僕がちゃんとケツ拭いたる!」 「私はなんもしてない。沙也がその街とカズのことが恋しくなるように仕向け続けただけや。あ、ちなみに私もこの半年は沙也と電話してへんで。」 「そうか……、沙也、プライドと向き合うの辛かったろうな。まあ、それも今日でしまいや。」 ここで二度目の間が空いた。 「なあ、確認やけど……カズは今でも、ううん、今の利用され尽くした沙也のことも愛せるんやな?」  帆花の心配そうな声をかき消すように、僕は迷わず答える。 「心配せんでええ。世界でいちばん好きに決まっとるやろ!」 「よし、それ聞いて安心した。まあ、私はもう少し仮面被ったまま頑張ってみるわ。カズも頑張り!」  ここ数年来の戦友である帆花からの激励に、僕は身体の内側から飽和した熱が溢れ出すのを感じた。  電話を切る前に、ありがとう、と伝えて車のキーを手に取る。  もし帆花の予言が当たり、沙也がぼろぼろに傷ついた状態で電話をしてくるとしたなら。  その状態の沙也をどうやって癒し、そしてこの街へ戻ってくる踏ん切りをつけさせるか。  僕は半年前からそれを考え続け、これから向かう場所を決めていた。  どうしてももう一度、沙也と一緒に見たい景色がそこにあった。  海から吹き付ける風は少しだけ潮の香りと湿気を孕んでおり、耳元を通り抜けるときの優しい音が心地良かった。  ここに着いてから太陽はずいぶんと西に傾き、背中に連なる柔らかな稜線を徐々に赤く染め上げてゆく。  僕はその光景に目を細めながら、あの日に沙也と船の上から見た景色を思い出していた。  東京という街への憎悪に似た感情が芽生えたあの瞬間、それまで美しく見えていた夕暮れのビル群が前触れもなく無機質な凹凸で構成されたただの赤褐色の波形に変わった。  それは僕たちがかつて見ていた山の稜線が描く柔らかな波とはまったく異質で、ひどく冷たくて息が詰まるような感覚に襲われた。  そんな僕の姿を、その赤褐色の凹凸をまるで歪な歯のように動かしながら東京という巨大な街が笑っていた。  僕は目を閉じてかぶりを振ってから、東京湾にいる沙也に思いを馳せた。  きっと向こうはここよりも夕暮れが早いはずで、時間的にもあのビル群が見えてきた頃だろうか。  雲間から差し込んでくる網膜を焼かれそうな西日に思わず目を閉じたとき、スマホがビデオ通話の着信を知らせた。  いちどゆっくりと息を吐いてから通話ボタンを押すと、三年ぶりに見る沙也の顔がそこにあった。  僕は安堵の声を漏らし、思わず微笑む。 「ちゃんとかけてきてくれて、ありがとうな。……髪、長くなったな。うん、よう似おうとるな。」  その長く美しい髪を海風にそよがせ、沙也は何も言わずにじっとこちらを見ている。  画面のなかで、沙也の目は夕日に照らされてひどく潤んでいた。  きっと何か言葉を発してしまうと、そのはずみで目から感情が溢れてしまうことを自覚しているのだろう。  そんな沙也の目を見るに、きっとその目にはもうあのビル群が美しいものとして映っていないと僕は確信した。  今やで。  帆花がもういちど僕に囁いたような気がした。  僕は、精いっぱいの明るい声を出す。 「なあ、沙也、ここ覚えとるか?」  僕はスマホを裏返しながら、ゆっくりとその場で三回転した。  きっと沙也の目には、夕日に染まる遠くの海と柔らかな稜線の波、ゆったりと流れる眼下の川、そして古びたベンチが順番に見えているはずだ。  ひと呼吸おいてからスマホを覗き込むと、やはり沙也の目からは大粒の涙がいくつも流れ落ち、夕日を美しく反射していた。  画面の中で沙也が唇を震わせる。 「和斗、あんた酷いわ。なんで今の私にそんな景色なんか見せんねん。……そこ……あのときの公園やんか。」  途切れ途切れの沙也の声に、僕は思わず、ああ、と声を漏らした。  沙也の話す関西弁を聞くのはいつ以来だろう。  きっと東京に出てすぐ、沙也は言葉遣いを変えてしまったはずだった。  この公園ではにかみながら唇を重ねたあの頃の沙也が、少しずつ自分の方へ歩いてくるのが分かった。  僕も心の中で沙也に向かってゆっくりと歩き出す。 「僕は東京におったときもずっとこの場所を、景色を忘れられへんかったわ。お前が告白してくれたこの公園の景色をな。」  電話から、うえええ、という懐かしい泣き声が聞こえる。 「沙也、お前の目の前にある景色は、ふたりで見たときと同じくらいきれいに見えとるか?」  僕の言葉に沙也は画面から少しだけ目をそらし、それからすぐにいやいやをするようにかぶりを振った。 「こんなん、ただの尖った波や。和斗の後ろに映っとる山のほうが何倍もきれいに見えてる。なあ、もっと見せてよ。」  スマホを持ちながらもういちどゆっくりと回る僕の目からも、堪えようのない涙がこぼれ落ちる。 「見えるか、沙也。この景色が。俺の見てる景色が、見えるか?」  感情がたかぶり、言葉をうまく声にすることができない。 「見えとる、見えとるよ。めっちゃきれいや。山も、海も、川も、その公園も。……なんも変わってへん! 変わったのは私や。ほんまやったら和斗と顔も合わせられへんくらい、私は歪んでもうたんや。」  沙也の声は嗚咽にまみれ、整った顔も涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。  でも、美しかった。  かけがえないほど、沙也は美しかった。  自分の弱さを認め、プライドという殻を破り捨てて子供の頃のように泣きじゃくる沙也の姿は、夕日のコントラストと相まってこの上なく美しく僕の目に映っていた。  僕は人ひとりいない公園で、スマホをぎゅっと握りしめながらゆっくりと呼吸を整えた。  潮風がひとつ駆け抜ける。 「沙也。ようやっと、ようやっとお前と同じ景色が見れた。ようやっと、お前に僕の想いを伝えられる。」  僕はしゃくり上げそうになるのをなんとか抑えながら、ひとつひとつ言葉を繋いだ。  沙也も僕の言葉を聞き逃さないよう、口に手を当てて必死に声を殺している。 「この場所で、今度は僕から言わせてくれ。僕はずっと沙也のことが好きや。お前がどんな場所で何をしていても、どんなに強がっても、僕のなかでは泣き虫のまんまや。せやからな、これからは僕にお前のことを守らせてくれ。この街で僕と一緒に、僕と同じ景色を見ながら生きてくれ!」  最後は何を言っているか分からないほどろれつが回っていなかったが、沙也がまるで涙を飛ばすように何度もうなずく姿が見えたことで、僕はあの頃の沙也に数年越しの想いを伝えられたのだとようやく安堵した。  堪え切れなくなったのか、沙也が周りも気にせずに声を上げる。 「私だって、私だってずうっと和斗が好きやった。和斗が出て行ったときも、ホンマは泣いてすがって、行かないでって言いたかった。 でも、置いてかんで、って言おうとしてない自分に気づいて、諦めるしかなかった。」  僕の記憶にたくさんの感情が流れ込む。  そうか、僕が沙也の強がりをもっと理解していれば、もしかしたら傷つけずに沙也を解放してやることができたのかもしれない。  そんな後悔を溶かしてしまうほど、今はなんとしても沙也を幸せにしたい。  そう強く思った心に沙也の声が響く。 「帆花からずっと和斗は私のことを信じて待ってるって言われてもな、それでもどうしても素直になれへんかった。自分の夢なんかとっくに潰れてしもてんのは分かってんのに、それでも私、プライドが捨てられへんかった。」  言葉の途中でしゃくり上げながら、まるで懺悔のように沙也は続けた。 「ほんまごめんな、和斗。私はもう、ほんまに汚れてもうた。あれから女優になれるなんてありもしないエサに釣られて、欲にまみれた色んな男と……。」 「やかましいわ!」  僕は自分でも驚くぐらい大きな声で叫んでいた。  沙也の言葉がぴたりと止まり、画面越しに驚いたように見開かれた目がこちらを見つめている。  僕は少しの間を空けて、そこから更に二度の深呼吸をしてから口を開いた。 「おかげさんで最近は店も忙しくなってきてな。ちょうど誰か雇おうかと思っとったとこや。はよ帰ってきい、待っとるから。」  電話の向こうからもういちど、うえええ、という声が聞こえた。  僕は小さく頷いてから、愛してるで、と、最愛の女性に想いを短く伝えた。  少しして途切れ途切れの、大事にしてな、という沙也の声が聞こえたとき、ベンチに並んだ10年前の僕たちが微笑んだような、そんな気がした。  僕は通話を切ったあとですこしだけ涙を拭いてから、僕たちのこれからについて報告をするべく最大の恩人に電話をかけた。  沙也が東京を離れて半年が過ぎていた。  私はいつも通りに前室で笑顔の仮面をつけ、スタジオに続くぶ厚い遮音ドアを開けた。  それからゆっくりと高い背もたれの椅子に腰を沈めながら、目の前に置かれたA4の束を手際よく分別してゆく。  少しして流れ始めた短いジングルのあとで、ガラス越しの合図に私はゆっくりとカフを上げ、マイクに向かう。 「都会の喧騒も少しだけ落ち着きはじめる午後七時、ラジオの前で皆さんはどんな時間をお過ごし?」  私の声が電波に乗り、それは光の速さで日本中を駆け巡る。 「そうそう。今日は、個人的にすごく嬉しいことがあったんですよ。ここでちょっと、お披露目させてくださいね。」  出来るだけ都会的なアクセントとニュアンスを意識しながらそう言ったあとで私は大きく息を吸い込み、仮面に隠した心からの笑顔で声を張り上げた。 「私の地元の同級生カップルが、このたび、結婚することになりました!」 同じ景色 了
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