第二話

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第二話

 駅から出ると、相変わらず弱い雨は降っていた。細かい雨粒が、私たちに懐くようにまとわりついてくる。私は、壊れかけの傘を広げて、傘を持っていない彼と二人でその中に入った。ぽたぽたと、変な角度から雫が垂れてきて、私たちを濡らすから、傘としてはあんまり意味がなかったかもしれないけれど。 「どうして傘を持って来なかったの?」  それでも、彼はこの雨が嫌かもしれない、と思って、途中で私は聞いてみた。やっぱりそこに表情がないから、良いも悪いもわからないけど。 「長野は降ってなかったんだよ」 「遠く離れた旅先なんだから、降ってもおかしくないでしょう。ここの天気予報くらい直ぐに調べられるのに」 「荷物を増やしたくないし。……君こそ、こんな傘ならさしていてもいなくても、変わらないのに」 「気持ちの問題。傘をさしているっていう気持ちになれればいいの」 「豪快だね」 「……そうだよ、わかるでしょう」  一瞬、彼は黙った。  おそらくは、困っているのだろう。頷いていいものかどうか。でも、しばらくして、ぽそりと、控えめで柔らかな雨音に紛れて言った。 「……うん」  そんな彼に、私はにっこりと笑う。  複雑に何度も目立つ目印もない道を曲がって、彼にはどこをどう歩いたかもうわからないだろう。ついに見えた。 「ほら、あの看板。あそこだよ」  赤い色に白い文字で書いてある。らーめん三平。こんなに分かり辛い場所にありながらも、いつもなら行列も出来るような店だけれども、今日は雨だからか、並んでいる人もいなかった。  ほら、雨だって悪くはない。  戸を開けると、少し脂っこい醤油のにおいが鼻に入ってくる。タオルを頭に巻いた、恰幅のいい四十がらみの店主が、こちらを見て、にっと笑った。 「いらっしゃい」 「二人です」 「じゃあ、そちらにどうぞ」  外に並んでいる人はいないものの、店内はほぼ満席で、ちょうど二席並んで空いている。今日はなんて運がいいんだろう。 「良かったね」 「うん」  メニューをちらっとだけ見たけれど、彼の中ではもう注文するものは決まっていたようで。 「僕はチャーシュー麺の醤油」 「それは良い選択。ここはチャーシューが美味しいんだよ」 「うん、ガイドブックで読んで知ってた」 「私もそうしよう」  二人して、チャーシュー麺を注文して、とりとめのない会話をしながら待っていた。  長野はどんなところか(山ばかりで海がない)、蕎麦は好きか(安直すぎると言われた)、雨は嫌いか(そんなことはない、と言われて、私は安心した)、ピアノは好きか(好きでも嫌いでもない)、海と山はどっちが好きか(海、だそうだ)……などなど、そんなことを。  彼も反対に私に何か聞いてくるのかと思ったけれど、私の質問攻撃に淡々と答えているだけだった。  もしかすると、改めて訊ねることがないほど私のことを知っているのか。あるいは、秘密を知っていても、たいして興味もないのか。  ふと、次に何を聞こうかと考えて間が空いた時、店の隅に置いてある小さなテレビでは、昼のワイドショーが流れていた。数日前にこの近くで起きたらしい殺人事件を、ニュース番組よりも、ドラマチックにふんだんに面白おかしい盛り付けをして報じている。  自分が注文したラーメンが来るのを待っているおじさんが、独り言をつぶやいた。 「また殺人事件か……いつになっても終わらないな。怖いねぇ」  黙って聞いていた彼が、ぽそりと、思わず転がり出てしまったように言葉をこぼした。 「また……って……」  彼が何を知っているのかわからない。でも、私のことも、この町のことも、興味がないというわけでもなさそうだ。  それはそうだろう。だからここにいるのだし。でも、あんまりそこに何もないものだから、どうしても彼が何かしらの興味を持っているとは納得は出来ない。  私は、じっと彼のことを見つめて、そこに少しでも何かの感情がないかと探ろうとした。でも、あまりにも完璧に、彼は一切を封じてしまっている。  だから、尋ねるしかない。 「怖い?帰りたくなった?」  彼の何の感情も宿さぬ瞳が、しばらく私を見ていた。静かに、深いところを見透かすように。 「別に……」 「そう、よかった」  本当のことを答えてくれているかはわからない。でも、逃げない選択をしたのは事実だ。やっぱり、私はそれが嬉しい。  知らずに、私はにこにこ笑っていたらしい。 「機嫌いいね」 「そうだね。ラーメンまだかな」  その言葉を聞いていたかのように、店員さんがラーメンを運んできてくれた。目の前にどんぶりを置かれると、その匂いに一層食欲が刺激される。 「はい、チャーシュー麺、お待ちどうさまです」  それでも、彼の顔色は一切変わらなかったけれど。 「いただきます」  焦がし醤油が芳ばしくて美味しい。店が自慢にしているチャーシューも、柔らかくて溶けるように口の中であっという間になくなってしまう。私が舌鼓を打っていると、ふと、彼の視線に気づいて、私は顔を上げた。 「何?」  どちらかといえば、観察されているような目つき。あまり気分がいいとは言えない。 そんなにじろじろ見なくても、あなたにはわかるんじゃないの? そう言いたいのを、私はぐっと堪えた。 「いや……何でもない」  彼はまたどんぶりに視線を戻して、黙々とラーメンを食べていた。美味しいと思っているのかどうかは、やっぱりちっともわからないのだけど。  でも、なんとなく、私の秘密を知っているのなら、この場合考えていることはだいたい想像がつく。  だから、私は見せつけるようにチャーシューを食べる。 「種類はあまり問わず、お肉が好きなの」 「だろうね」  自分でも、質の悪い冗談だと思う。だけど、こっそり笑ってしまう。
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