第一話

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第一話

 弱い雨が、地球を慰めるように降っていた。  私は、ほんの少し濡れてしまった真っ白いワンピースの裾を揺らして、骨が折れかけている傘をたたんで、駅の中へ入って行った。  電車になんか乗らないし、滅多にこんなところには来ないけれど、今日みたいな日は、特別に目的がある。  田舎だから、そんなに電車を使う人もいなくて、どちらかといえば、寂しい場所。  待合に使う広場の真ん中。  駅に置いてあったピアノは、誰でも弾いていいものだそうで、その時誰も使っていなかったから、私はショパンの『雨だれ』を静かに奏でた。  どうして誰も使わないようなこんなところに、こんなものを置いたのかは謎だけれど。私は気に入っている。  プロのピアニストや、音大に通う学生なんかに比べれば、そりゃあ、上手くはない。でも、雨が少しでも耳に心地いい音になって、心にやがて花が咲く芽が出る薬になれば。  憂鬱な雨、じゃなくて、優しい雨、に、なれ。  そんなこと、真剣に考えていたわけでもないけど。  むしろ、私がそんなことを言ったりしたら、気でも狂っているのかと言われるだろう。おかしな話。  元々人がそんなにいないところに、たまに通っていく人も誰も足を止めて聴くわけではなく、過ぎて行く。駅とはそういうものだから、あまり気にしないし、じっくり聴かせるようなものでもないから別にいい。  そのはずだったけど、最後の一音を叩いた指が鍵盤から離れた時だった。  パチパチパチ。  微かに、手を叩く音が聞こえて来た。  高校生くらいの少年だろうか。まったく感動などしていないような、無表情で手を叩いているから、本当にそれが私に向けられているものかと、疑ってしまう。でも、その目は確実にこちらを見ている。 「まさか、そんなに熱心に聴いてくれている人がいるなんて思わなかった」  半分は皮肉。だって、顔にちっとも感動したなんて書いてないし、心からの賞賛とは思えないから。  でも、半分は嬉しいのも本当。たとえ形ばかりだったとしても、耳を傾けてくれて、褒められるのは悪い気はしないのは確かだ。 「ストリートピアノか。最近ちょっと話題になってるよね。誰でも弾いていいとはいえ、こんな往来で披露するとは、自信と勇気があるんだね」  単純に褒められているわけではない。どうにも皮肉にしか聞こえない言葉。半分だけあった、私のいい気分も、すっかりその半分以下に減ってしまった。 やっぱり、何かの嫌がらせなのかしら。  淡々として、何の感情も籠っていないその声に、私は少し腹立たしくなってきた。 「あなた以外誰も聴いてないし。……それに、上手じゃなきゃ披露しちゃいけないこともないでしょう。お金取ってるわけでもないんだから」 「まあ、それはそうだね。僕はそこまで音楽に精通しているわけじゃないから、本当に上手いかどうかなんてわからないけど……でも、優しい音だった」  相変わらず無表情ではあったけど、思いもかけない素直な言葉に、私は少し動揺してしまった。  やっぱり、褒めてくれているのかしら。  思わず、目を逸らして俯いてしまう。顔がちょっとだけ赤くなっているのが、ばれなければいいけど。  優しい音。  その言葉に、ぶわっと、心臓の中で血が暴れ出しそうなほど、本当は嬉しかったけれど、必死に私は押し隠した。 「そう……」 「雨は好き?」 「好きとか嫌いとかはないけど。だって、雨だって降らなきゃいけないし。それでも、じめじめして、気分は落ち込むし、傘は邪魔くさいし……それで嫌われるのには同情するわ」 「同情って……」  呆れられたのか、笑われたのか、相変わらずよくわからない。別に、そこまで興味があるわけではないのだけど、なんとなく気になってしまって、私はつい身元を探るようなことを聞いてしまった。 「高校生?」 「うん。でも、ここのじゃない。旅行に来たんだ。夏休みだしね」  その割には、背負っているバックパックもさほど大きいものではないし、中身がパンパンというわけでもなさそうで、随分と身軽だ。  もしかしたら、嘘をつかれているのかもしれない。  偶然ここに居合わせただけだから、何もかもを正直に話す必要もないといえばないのだけど。 「一人で?」  彼はやっぱり何の感情も宿さぬまま頷いた。 「なんか、息苦しくて、いつもと違う景色を見たかったんだ。でも、あんまりお金もないしさ、ここには親戚がいて、五日間で五千円の雑費込みの食事代を払えば泊めてくれるって言うから。そういうふうに割り切った方がお互い遠慮しなくていいって」 「そうなんだ。どこから来たの?」 「長野」 「ふーん。……ねえ、何なの?」  だんだん私は腹が立ってきた。  つまらないからその場から去るわけでもないのに、何も、ちょっとも、楽しくなんてなさそうなのが。かといって、不愉快そうというわけでもなくて。  何も、そこにないのが。  惚けたように、彼が聞き返してくるのが、ますます腹が立つ。 「何って、何が?」 「何もわからない」 「だから、僕は高校生で、ここへは旅行で……」 「そうじゃなくて」 「何の話?」 「何を考えているのかさっぱり見えない。何も感情が顔にない」  一瞬だけ、ピクリと片方の眉が動いた気がした。それが、唯一の、彼が見せた感情の揺れらしきものだ。  でも、それもすぐに消えてしまう。また、張り付けた仮面のような顔。 「……ああ」 「感情を表に出すの、下手くそなだけ?」 「いや、そうじゃない。わざとだから」 「どうして?笑ったり泣いたり怒ったり、そういうのを押し込めるのは、体によくないよ」 「余計なことを見せないように」 「君の感情は余計なことなの?」  そうじゃない、と、聞こえないくらいの声で彼は言った。 「素直になってたら、見せない方がいいものまで見せちゃうから」 「よくない感情?」 「感情……というより、よくないこと」 「よくわからない」 「わからなくていいよ。……君は?」 「え?」 「どう見たって、まだ子供だとも言えるくらいの歳に見えるけど。学校には行ってないだけかな」  何と答えたものか。私は曖昧にお茶を濁すような答え方をすることにした。 「……そうね、まあ、そんなものかも」  きっと、信じてなんかいないだろう。でも、それもやっぱりわからない。さっぱり見えない彼の感情に、私はずっと不満だったけれど、私だってこうして本当のことを言わないのだから、おあいこかもしれない。 「ほら、君だって、言えないことがある」  うしろめたさはちゃんとしっかり自分でも感じていたのに、はっきりと突かれると、むしろ腹立たしくなってしまう。私は子供みたいにぷぅっとふくれっ面をするしかなかった。  でも、彼はさっさと話題を変えたから、うしろめたさをどこかに持っていたのは、同じなのかもしれない。  いや、しかし、あまり私の秘密に興味はないというのが正解なのかもしれない、という疑念は捨てきれなかった。 「他に何か弾ける?」 「何が聴きたい?」  うーん、と、彼は首を捻って小さく唸った。 「リストの、ラ・カンパネラ」  この人は、やっぱりとてつもなく意地悪な人じゃないかしら。そんな曲弾けるわけがないのに。  私が、むっと顔を顰めても、彼は涼しい顔をしていた。 「冗談だけどね。……それは冗談だけど……本当に僕が言いたい無茶はさ……」 「何?」  私の機嫌を探るように、彼はちらりと一度私に視線を投げた。 「君は、地元の子だよね」 「うん」 「じゃあ、案内してくれるかな」 「いいよ。それくらい、別に無茶でもないけど」 「図々しいかなって」 「ラ・カンパネラを弾けっていうよりは図々しくない」 「そう?」 「うん。で、どこに行きたいの?」  彼は背負っていたバックパックを肩から降ろして、中から観光のガイドブックを取り出した。 「ここ……」  開かれたページに書かれていたのは、駅からそう遠くはないラーメン屋だった。確かに、この辺じゃ評判がいい店だ。遠くはいないといっても、道が複雑に入り組んだ、わかりにくい場所にあるため、彼が道案内を必要とするのもわからなくはない。 時間はちょうど正午過ぎ。なるほど、昼食の時間。  私も、お腹が減っていた。そう、空腹だった。 私が嫌いな、この感覚。 「君も、お腹空いていない?」 「うん、とっても」 「そうだと思った。しかも、飢えている、って言えるくらいだろう」 「……え?」  空耳かと思うくらい、彼がさりげなくつぶやいた言葉に私が戸惑って立ち止まっているのに、彼はバックパックを背負い直して歩き始めた。  案内を必要としているのに、どうして私を置いて行くのだろう。そんな急げって言ったって、脚が貼りついたみたいに動かない。まるで、危険を察知した獣みたいに。不安そうな顔をしたら、ますますいけないことになるのはわかっているのに。  数メートル進んだところで立ち止まって、彼はこちらを振り返る。私と、ピアノを。 「実はね、僕にはわかるんだ。わかるから、わかっていることを人にわからないように、表情を全部殺した」 「私がお腹が空いてるってことも、本当は、私が隠していることも?」  彼は静かに頷いた。 「心が読めるの?」 「そうじゃないけど……でも……」  衝動的に、私は彼のシャツの脇を、くいっと引っ張ってしまった。逃がさないで、急いで答えをねだるように。 「何?」  彼は足を止めて、私をじっと見つめた。深い、厚い、空の雲を写したような、真っ黒なその瞳で。  私はまた、動けなくなってしまう。 「私が……」  吹き付けた風に、言葉が攫われてしまったかのように、彼は黙り込んでしまった。  喉が、からからだった。胃が、キュッと引きつるような感覚。 食べたい。食べたい。食べたい。食べてしまえ。食べてしまえ。食べてしまえ。   私は、そんな自分の中で聞こえる自分自身の声を、何とか封じ込めようとした。聞いちゃいけない。自分の声も、彼の話の先も。 だから、わざとらしいくらい明るい様子を振舞ってみる。 「替え玉とかもしちゃうくらい、ラーメンを食べているところが、わかったりしたわけ?」 「……そうだね」  それだけしか言わなかった。  私は、小さく息を飲んだ。  本当に、私の何かを知っているのかはわからない。この少年のことは、何も見えない。けれど、その理由は少しだけなら推測できた。 そこに何も示さず、感情を表から消してしまうくらいに、散々傷つけて、傷つけられてきた何かがあったのだろうと。 だから、何も見せないし、言わない。 彼はそれを選んだ。  言えないことを知っていて、私を避けるように今この場を立ち去ることだってできるだろうに。それもしない。  彼はそれを選んだ。  そして、私のピアノの音を優しいと言ってくれた。  私は、それが嬉しくて、嬉しくて、彼を抱きしめたくなったけど、何とか思いとどまって、代わりに彼の手を取って引っ張った。  ありがとう。
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