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疲れていた。出張そのままに立ち寄ったから、イーヴルは疲れていた。そこに少しとは言え腹を満たす食事と美味い酒。気分が良かったのは確かだった。
普段茶割りを好んで飲むイーヴルにとって、この和酒は強い部類だ。慣れない度数の酔いが回る。
目の前にはイーヴルだからこそ気を許している黒曜がいる。無防備に酒を飲み、会話をしながら食事をしている。普段は周りに結構な対応をするくせに、彼だけの前では素の笑顔を晒す。
──今のこの関係を壊したくない。
そうやって彼はずっと堪えてきた。目の前にいる人は、彼にとって尊敬に値する人だ。過去に関係があった人とは違い、彼に貼り付けられた『箔』を見ない。彼そのものを見てくれて、一緒にいてくれる人だ。だからこそ、彼はその人との関係を大事にして来ている。
──壊したくない。
その一心だ。
まだ理性は感情を上回っている。何度も見た無防備なその姿。一緒の食事を楽しそうにしているその笑顔。
そして美味しい1杯の酒。
──酒のせいにしたくない。
彼だって大人の男だ。欲くらい持っている。いつかはそうしたいと思っていたし、それは今なのではと理性が訴える。理性がまだ残っているうちに、全て感情に支配される前に。感情的にではなく理性的に。
「…黒曜さん」
テーブルの上の料理は完食している。グラスの酒も飲み切った。片付けは、あとで良い。
「黒曜さん」
立ち上がり、向かいに座る黒曜のすぐ脇へと移動する。
「黒曜さん、嫌だったら殴ってくれて構わない」
イーヴルの右手が黒曜の左腕に触れる。自分に引き寄せ、抱き締めた。
「…あったかい…」
「イーヴル?酔ってるだろ」
「酔ってるよ。酒、美味かったもん。でも酒に支配される前にこうしたかったんだ。嫌なら殴っていいよ」
黒猫の様な、さらっとした髪に右手の指を差し込む。その手はそっと黒曜の頭部を固定する。
理性的に行きたかった。だがもう無理だ。ふわっと香る風呂上がりの匂いに、イーヴルの理性はいとも簡単に飛んだ。
「…前にも言ったよね」
顔を寄せる。イーヴルの唇が黒曜の左耳の側まで来る。そこでそっと囁いた。
「俺だって優位に立てるんだよ?…って」
そこからはもう、崩れる様にだった。
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