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天井の低い小さなライブハウスのステージで、千里先輩は歌っていた。地下にあるそこはフロアも含め全てが窮屈な感じのする場所で、だから先輩は、抑圧とか束縛とか、そういう何かに抗っている印象がして、歌うというより闘っている感じがした。
わたしはそんな先輩の姿と歌声に、釘付けになる。
バンドの演奏は技巧よりも荒々しさが前面に出ていて、歪んだギターの音が激しくも感傷的な空気感を生み出していた。先輩はそんな轟音の海で、マイクスタンドの前に立っている。ノースリーブの衣装から伸びる腕は細く、髪を振り乱し歌うその姿には今にも壊れてしまいそうな儚さがあって、だけどそれとは対照的な力強い歌声が、確かな声量で叩きつけられる──
バン、バン、バンと砕け散り
宇宙のどこかに消えてしまった
見えないカメラを構えては
郵便受けを切り取って
あなたの影を追いかけてる
「おい、そろそろ行こう」
不意に声をかけられ、わたしを包み込んでいた轟音は波が引くように離れていった。そうしてできた隙間に、仕事帰りの木曜の夜という現実が流れ込む。わたしは大きめの瞬きをひとつして、同期の梶田君の方を向いた。
「みんなもう出ちゃうのー?」
それでも演奏は続いてるから、少し声を張り上げ、語尾が伸び気味になる。
「ああ! 軽く飲みに行くけど、どうする?」
「どうしよっかな……」
「えぇ?」
「わたし、いいや!」
「行かないのか?」
「他のバンドも見たいしー、みんなによろしく言っといて!」
「分かった。それじゃ、また明日」
「うん。お疲れ!」
わたしは小さく手を振り、梶田君を見送った。奥に見える出口付近には、部署の先輩方が集まっている。彼らとも目が合ったから、わたしはそっちにも手を振った。あ、来ないの? という顔で反応する彼らに、ええ、まぁ、という顔を返し、ザックリとした意思疎通が行われた。お疲れ様です──と会釈し、本日の業務が正式に終わる。
今日このライブハウスにやって来たのは、去年退職した元部長のバンドを観に行くという、よく分からないイベントのためだった。世代の違いもあってか、そのバンドの音楽自体に惹かれる部分はなかったのだけど、部長の陽気な性格とエンターテインメント精神のおかげで、わたしも何となく楽しむことができた。マンネリ化している普段の木曜日に比べれば、こういうのも悪くない。
そういうわけだから、千里先輩との遭遇はまったくの偶然だった。
ステージに視線を戻せば、先輩のバンドが演奏を続けている。一度現実に引き戻されたせいか、さっきより冷静な目でそれを眺めている自分がいた。
わたしが覚えている先輩の声と比べると、少し鼻声な気がする。体調が悪いのか、あるいは歌い方を変えたのかもしれない──でもそんなことより、さっきの歌詞だ。
バン、バン、バンと砕け散り
宇宙のどこかに消えてしまった
見えないカメラを構えては
郵便受けを切り取って
あなたの影を追いかけてる
わたしはその内容に心当たりがあった。いま目の前で演奏されているこの曲はきっと、リリアン・ヴァージニア・マウントウィーゼルについての歌だ。
そしてわたしは思い返す。
先輩と交わした、その名にまつわる出来事を。
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