プロローグ 裏切り

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プロローグ 裏切り

 夜遅く、雪はいつのまにか(みぞれ)に変わっていた。そのせいで水を吸った外套がひどく重く感じられる。槍の柄を握りしめる指先は冷たく悴んで、もうあまり感覚がない。もはや疲れも麻痺した脚をただひたすらに動かして、アルレクスは城壁を駆け上がった。 「止まれ!」 「撃つな!」  背後で大声が重なる。片方は聞き慣れた弟のものだが、優しく気弱な弟が発したとは思えないほど、鋭く怒りに満ちている。  雪の積もった歩廊に上がると、角の鋸壁(きょへき)に飛び上がり、そこで初めてアルレクスは後ろを振り返った。弾む息を整え、階段から一番に駆け上がってきた人物と対峙する。 「兄さん!」  数週間ぶりに見る弟アルヴィンは、やはり、記憶にある通り儚げな雰囲気を纏っている。アルレクスと違って体の弱いアルヴィンには、ここまで上がってくるのにも苦労するのだろう、苦しげに片手で胸を押さえている。それを見て、アルレクスは駆け寄りたくなる思いをぐっと堪えた。  大事な、大事な、歳の離れた弟。敬愛する母が命懸けで産み、か弱いがゆえに、兄として一生をかけて守り抜くと幼心に誓った——その弟に、裏切られたことを思い出す。 「アルヴィン、いつからだ」  常になく厳しく、ともすれば詰問するような声音で、アルレクスは呼びかける。アルヴィンは後を追って雪崩れ込んできた兵士たちを片手で制すると、アルレクスの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。 「エステラとは、兄さんの考えているような関係じゃない」 「私の婚約者」  一ヶ月前に、アルレクスは偶然それを目にした。愛した少女エステラと、弟が親しげに語り合い、そして、口づけを交わすのを。アルレクスに対しにこりとも笑ってくれたことのないエステラが、花が綻ぶように微笑むのを。それを、裏切りという以外になんというのだろう。  いや、それだけならまだ——アルレクスは自身が思っているよりもずっと深く、自らの愛を諦められるくらいには弟のことを可愛がっていたので——しかし、エステラはアルヴィンを愛し、〈星の予言〉だとして、アルレクスを次期公王の位から退けた。  国に災いをもたらす凶星、悪虐の王としてアルレクスを断罪したのだ。そして、アルヴィンはそれに反対しなかった。アルレクスを離宮に閉じ込め、自ら公王として戴冠すると、エステラを公妃に迎えた。  この弟の大胆な行動を、アルレクスはいまだに理解できない。親が取り決めた婚姻とはいえ、アルレクスがエステラを愛していたことを、アルレクスのそばに居続けた弟が知らぬはずがないのだ。それを、これみよがしに奪ってみせて、今更何を(のたま)うのか。 「どこに行くの? どうして逃げるの? ねえ、兄さん……」  まるで捨てられた子犬のように、縋るような瞳でアルヴィンはアルレクスに訴えかける。どうして、とはこちらが聞きたい、とアルレクスは歯噛みした。  どうして、私を裏切ったのか。  なぜ、私から全てを奪うのか。  その上で、まるでこれから何もかもを失うかのように絶望しているその心が、分からない。 「私はもうお前の兄ではない。さらばだ、アルヴィン」  怒りとも悲しみともつかぬ大きな感情を持て余したまま、アルレクスはそう告げる。アルヴィンは今にも泣き出しそうに顔を歪め、首を横に振った。 「待って、兄さん!」  強く地を蹴り、アルレクスは城壁の上から飛び降りた。  相当な高さだ。無事では済むまい。だが、別に死のうと思って飛び降りたわけではない。この城壁は、フォルドラ公国の最端、国境の城壁だ。乗り越えてしまえば、アルヴィンはアルレクスをこれ以上追うことはできない。  溶けかけてはいるが分厚く積もった雪が、アルレクスの体を受け止めた。結構な衝撃だったが、あちこち痛む程度で、指は動くし足も折れていない。よし、と雪の中から這い上がると、フードに収められていた赤い髪がばさりと広がった。  見上げると、城壁の端からアルヴィンが悲痛な表情でアルレクスの姿を探していた。地上は暗く、アルレクスの血のように鮮やかな赤い髪も闇に紛れてしまう。アルレクスはフードを目深(まぶか)に被りなおし、音もなくその場から離れた。  アルレクス=ヴァン=フォルドラ——フォルドラ公国の公子であった青年は、その夜、歴史の表舞台から姿を消した。
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