第1章 誘いの魔女

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第1章 誘いの魔女

 大陸の東南に広がるログ大平野は、イベル川とロシュアン川というふたつの大河を擁する。治水がまだ不完全であった頃、このふたつの大河はたびたび氾濫して甚大な被害をもたらし、双子の暴れ竜として幾度も歴史書に名を連ねた。今は肥沃な土壌を育くむ竜神として、星乙女(アレストリア)の名の下に祀られている。 e94a6922-b341-47c6-9134-4cc9096390c3  フォルドラ公国から逃れ、アルレクスは隣国アレストリアへと落ちのびた。それから三年、アルレクスは身分を隠しながらアレストリア国内を回り、隊商の護衛や賊の討伐などで食い繋いでいた。フォルドラ公王の血筋に連なることを示す赤い髪は、コベリの実をすり潰して黒っぽく染めているが、発音だけはなかなかに馴染まず、ひどく周囲から浮いてしまうため、ひとつところに長く滞在することはできない。ゆえにそろそろ次の土地に行くべきだと、春を待って、竜骨山脈を挟んで北にあるシルヴァンデール王国へと旅立つつもりでいた。  冬のアレストリアはニルス地方の山岳帯にあるフォルドラほど雪深くない。それでも雪を見るといやでもあの夜のことを思い出してしまい、アルレクスは憂鬱な気分になった。  あれから三年の月日が流れ——アレストリアでは小国フォルドラの噂など微塵も聞かないが、少なくとも滅んだりなどはしていないようである。アルレクスの亡父、前公王アルファルドの代より宮廷の大臣や文官たちは優秀であったし、アルヴィンは次期公王のアルレクスの補佐として勉学に励んでいたため、乱心でもしない限りは悪政が蔓延ることはないだろう。弟アルヴィンは誰よりも民の安寧を願う心優しい少年だった。  なのに、なぜ。  アルレクスは首を振って、堂々巡りになりがちな考えを打ち消した。アルヴィンがアルレクスに与えた傷は思いのほか深く、アルレクスの心を抉っていた。この三年間、「なぜ」という思いがアルレクスの意識から一瞬でも忘れ去られたことはない。夢の中で、幼い弟と自分は未来に想いを馳せながら希望を語り合っているのに、目覚めればそれが過ぎたことであり、取り戻せない時間だということを突きつけられてしまう——ああ、また考えている。  苛立ち紛れに手にした槍を横凪ぎに振るうと、枯れ木に当たって鈍い音を立てた。感情を吐き出すように重いため息をつくと、少しは気も落ち着くように思われた。 (そろそろ街道が見えても良い頃合いだが)  冬となり葉が落ちたところで単純に見通しが良くなるというわけではないのが森である。近道をしようと横着したのが不味かったのだろう、この森は存外に広いようで、なかなか街道に出られない。木々の間から辛うじて見える星の傾きは、現在夜の二時ごろであることを教えてくれるが、それだけだ。流石にこれ以上歩く気力も失せて、どこか日が昇るまで休めそうな場所を探して視線を巡らせる。  と、突然アルレクスの耳を女の悲鳴が(つんざ)いた。何事かとその方角を振り返ると、明かりらしいものが揺れてから消える。そう遠くはない。考えるより先に体が動き、駆け出していた。  地面の枝葉を蹴飛ばしながら走る。少し開けた場所で、ずたぼろの衣服に身を包んだ男が、その足元で(うずくま)る人影に斧を振り下ろそうとしていた。アルレクスはと悟り、ぐっと踏み込んで手に持っていた槍を力一杯男に目掛けて投擲する。  槍は男の右肩を切り裂いて背後の木の幹に突き立ち、男はぎゃっと短い悲鳴をあげて後ろへ倒れ込んだ。アルレクスは蹲る人影を庇うようにして立つと、腰の剣を抜いてその切先を男の喉元に突きつけた。 「今宵は月無夜だが、命までは取らん。失せろ!」  男は引き攣った声をあげて、なんとか立ち上がると、あらぬ方向へ駆け去っていった。おそらく、野盗の類だろう。アルレクスは油断なく辺りを見回し、耳を澄ませて他に悪党が現れないか待った。そうして安全を確認すると剣を納め、木に突き立った槍を引き抜く。  アルレクスが救った人物は、まだ蹲ったまま震えていた。そばに膝をつくと、びくりと顔をあげる。皺の深い、背中の曲がった老婆だった。 「あ、あ……」 「ご安心召されよ、ご婦人。悪党はもういません。しかしこのような夜更けにこんな場所で、一体何を?」  近くには老婆が持っていたであろうランタンと、パンがこぼれたバスケットが転がっている。それらを拾い集め、努めて優しく声をかけると、老婆はだんだんと落ち着きを取り戻した。 「ありがとうございます、見知らぬ、親切な方。私はノーラ、ノーラ婆と呼ばれております。この近くにあるベルディーシュ村のもので、孫娘に食べ物を届けに行く途中だったのです」 「こんな真夜中に?」  アルレクスは眉を(ひそ)めた。声は小さいがしっかりと喋るこの老婆が、耄碌(もうろく)しているようには思えない。しかし、今宵は月無夜——何をするにも不運を避けられない、月の女神の慈悲が望めない夜である。不自然だった。  その時、遠くから人を呼ぶ声がいくつも聞こえてきた。聞くに、どうやらこの老婆を探しているような様子である。いくつもの松明の光が近づいてくるので、アルレクスはフードを目深に引き下ろして、彼らの到着を待った。 「ノーラ婆! こんなところに」  近づいてきた青年が、アルレクスの姿を認めるとうっと立ち止まる。 「ジョシュア、この人は、私を助けてくれたんだよ」 「どういうことだ?」  老婆の言葉に、青年は探るようにアルレクスを見る。アルレクスは肩を竦めて、落ちたままの斧を指さした。 「野盗に襲われていたのをたまたま見かけたので、助けた。旅のもので、賊ではない」 「そりゃ、そうだろうけどさ……」  交易語(バータス)にしては流麗な発音に、青年は思わずといった様子で面食らう。そのような反応には慣れていたので、アルレクスはこほんと咳払いをひとつした。 「どういうことかは私も聞きたい。孫娘に食事を届けるなどと言っていたが」 「……ノーラ婆は、ちょっと、ボケてるんだよ」  アルレクスがそう問いかけると、青年は歯切れ悪く答えた。言い淀んだその表情が、哀れみや羞恥のようなものではなく、ただ忌々しげなものだったので、アルレクスは首を捻る。 「さ、ノーラ婆。帰ろう。みんな心配してる」 「ああ……おぶってくれないかい。悪いね」  賊に驚いて転んだ拍子に足を捻ってしまったらしい。駆けつけた村人のひとりが老婆を担ぐと、青年がアルレクスを振りかえった。 「あんたはノーラ婆の命の恩人だ。もう遅いけど、泊まっていってくれ」 「それは願ってもない。朝までこの森を抜けられないと思っていたところだ」 「……迷子?」  青年の最後の言葉は無視して、アルレクスはぞろぞろと村に戻る一団について行く。どうやら、野宿の心配はしなくてもよさそうだ。
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