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紅色天賦①
部屋の中までついて来たがる女をエントランスで冷たくあしらい、いつもと変わらぬ、真っ暗で静寂に包まれているであろう自室の鍵を鍵穴に差し込んだ。
扉を開けると、出掛けに聖南が振り撒いた香水の匂いが生温い風と共に頬へ伝わり、とても気持ちが悪い。
換気をするという習慣もないために、蓄積されていく室内の重たい香。
聖南は無言で冷蔵庫へと歩み、ペットボトルのお茶を取り出して首元を冷やした。
今日の喧嘩の相手は厄介だった。
向こうから難癖をつけてきたので応戦してやったのに、腹に乗って地面に抑えつけても往生際の悪かった相手の少年は、聖南の下で死に物狂いで暴れていた。
その無駄な抵抗が愉快で、しばし静観しようと殴るのを止めたところで、隙の生まれた聖南の喉元を親指で圧迫してきたのだ。
さすがに喉仏を渾身の力で押さえられると痛かった。
すぐに顎を殴って沈めたから良かったものの、痣でも付いていやしないかと髪を束ねて洗面所に向かう。
自ら染めた雑な金髪は肩まで伸びきっていて、間もなく梅雨に向かう気候の最中では少々暑苦しいが、美容室へ行くのもかったるい。
随分長い事、聖南は自分で髪を切っている。
金が無いわけではない。 むしろ他所の家庭より裕福な方だ。
しかし聖南は、頼りたい家族が居ない。
否、居ないのではなく、滅多に会わないだけ。
聖南を産んだ母親の素性は知らない。
生きているのか、死んでいるのか、産むだけ産んで自分の意志で聖南を捨てたのか、病魔に冒されて仕方なく聖南と離れる事になったのか───。
それも今となってはどうでも良い。
年に数回、気まぐれに生活費を渡しにやって来る父親は存命だが、産まれてすぐの頃から聖南を放任している。
小学校に上がるまではベビーシッターが来て居たが、それからはハウスキーパーのおばさんが週三ほど聖南宅に出入りし、家事と炊事をこなして帰って行く。
このファミリー向けマンションの一室に聖南は独り取り残され、父親も母親も居ない生活をかれこれ七年も続けていると、何もかもを達観出来るようになる。
不自由ない暮らしが出来ているから、別にいい。 家族なんか要らない。
───俺に家族は、居ない。
せめてもの義理で生かされているだけ。
あえて聖南の居ない時間帯を見計らって、ダイニングテーブルの上に現金がパンパンに詰められた封筒を置いて去って行く父親など、世にそうは居ないはずだ。
寂しい、悲しい、侘しい、空しい、……そんな感情は三年ほど前から湧かなくなった。
独りは楽でいい。
クラスメイトらが不満を訴えていた。 宿題をしないで母親に怒られただの、悪事を働いて父親に殴られただの、聖南には縁のない話でラッキーだと思うようにした。
中学二年になりたての体は成長期真っ只中で、人より抜きん出た運動神経と立派な体躯になりつつある聖南に敵はいなかった。
ただし、この時の聖南にはまだ無邪気さがあった。
派手な成りはしていても、学校には遅刻せずきちんと行くし宿題も欠かさない。
若干0歳で父親のツテだか知らないが芸能事務所に放られて、習慣付いたレッスンも決められた日には必ず顔を出している。
与えられた仕事は言われるがままにこなし、子役としての知名度も上がったが現在はCMが一本のみ。
恐らく十月の改編期で契約は切られる事になるだろう。
それでもどうとも思わない。
聖南は世に出て仕事がしたいわけではない。
ただ聖南の居場所はどこにもなく、淡々と定まった毎日を過ごしていなければ、誰も居ないこの部屋で発狂しそうになる。
無理をしている自覚はあった。
なぜこんなに孤独なのだろうかと考えてツラくなるよりも、独りだからと、駄目な奴のレッテルを貼られる事の方が我慢ならなかった。
孤独である事など誰も知らないのに、聖南の中にあるプライドがそれを許さなかった。
たまにしか会わない父親の元に、学校から、または事務所から、聖南が不出来だと連絡が入る事も嫌だった。
迷惑を掛けたくない、とは思わない。
そうではなく、独りでもやっていけるのだと、届かない事は分かっていながら父親への当てつけのように聖南は毎日気を張っていた。
自分はこれからどうなるのだろう。
洗面所で、せっかく束ねた髪を解いて鏡の中の自分を見詰めた。
喉仏には赤い親指の痕。
目が合った鏡の中の聖南の瞳は、失望に翳っている。
あと何年経てば、大人になれるのか。
自由になりたい。
無心で居続ける事はひどく疲れる。
暗い感情を押し殺すのも、とても疲れる。
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