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紅色天賦②
洗面所から出てふと目に飛び込んできた、聖南名義の通帳と印鑑。
ダイニングではなく脚の低いガラステーブルの上に、それは置かれていた。
───父親が来たのか。
いつもいつも、聖南が居ない時を見計らって封筒に入った現金を置いて行くが、今日はなぜか通帳だ。
中学の制服であるカッターシャツは三つ目のボタンまで開けられていて、スラックスもローライズ気味に履いていてだらしがない。
裾を地面に擦らせて歩く、聖南の足がぴたりと止まる。
通帳を手に取り、中を確認するとすべての体の機能が一時停止した。
「……………は…?」
そこには、間違いなく中学生に渡すべきではない、数百万という大金が印字されていた。
テーブルには、聖南の実印。
通帳には、多額の金。
理解するに至るまで数分と掛からなかった。
名ばかりの父親は、ついに聖南を手放したのだ。
───見放された。
「……は、はは……っ」
聖南は通帳をテーブルに放り、笑った。
はじめはクスクスと控えめに笑い、込み上げてくる何かが可笑しくて可笑しくて、いつの間にか腹を抱えて笑っていた。
頬にはいくつも涙の雫が伝い、それは笑い泣きでは無かったが気にも留めずに笑い続けた。
そうか。 とうとうあいつは、父親である事を放棄したのか。
父親らしい事は何一つせず、まともに話をした覚えもない。
もはや顔も思い出せないほど、何ヶ月も会っていない。
父親とは呼べないあいつは、最後まで父親らしくなかった。
荒んでいく。
心が闇に包まれていく。
今日まで堪えていた怒りと憎しみ、侘しさが、とてつもない重さで心にのしかかってきた。
プライドが邪魔をして反発しないで居られた、聖南の一欠片の無邪気さも粉々に砕け散った。
もう、いい。 何もかもどうでもいい。
見放されたと分かったこの瞬間まで、聖南は無謀な希望を持っていたと気付き、それがまた空しさを増長させてしまった。
いつか、いつか、いつか、悪びれない顔で家に帰って来るだろう。
聖南の待つ広過ぎる3LDKの自宅に、一丁前に父親の顔をして「ただいま」と言ってくれる日がくるだろう。
仕事が忙しいならたまにでいい。 食事を一緒にしてみたい。
「おやすみ」と、言ってみたい。
寝起きは悪いが目覚ましさえ掛ければ一人で起きられる聖南は、「いつまで寝てんだ」と父親を起こしに行くのも何度となく想像した。
想像だけは、たくさんした。
希望があったから。 「いつか」が、必ずやって来ると信じていたから。
「……………………」
期待を持たせるような事をするなよ。 今捨てるなら、はじめから捨てれば良かったのに。
産まれて間もない聖南を事務所に押し付けたように、最初から、育てようという意志を見せなければ良かったのに。
母親は居なくて当たり前だったからまだいい。
だが父親は確かに居たのだ。
生活費を持って、聖南を育てようとする意志だけを伝えてくるどうしようもない人間だが、聖南にとってはそれが「父親」だった。
笑い過ぎて腹筋が痛い。
泣き疲れて喉が枯れた。
感情がどこかへ行った。
フローリングの床にへたり込んだ聖南は、髪をぐしゃぐしゃに掻き乱して一点を見詰める。
自由だ。
俺は、今日から大人だ。
何にも縛られるものが無くなったから、好きな事をする。 自由に、生きる。
自身の中に微かにあったらしい明るい光さえも見失った今、何のために「生きる」のかも分からないが…とにかく死ぬまで好きに生きてみよう。
孤独なのは今までと変わらない。
何も変わらない。
唯一の家族だと思っていた父親に見放されただけだ。
「変わらねぇよ、……何も…」
フローリングの床は冷たくて気持ちがいい。
むせ返る香水の匂いに鼻が曲がりそうなので、疲れきった聖南は瞳を閉じて堕ちる事にした。
このまま一生目を覚まさなくても構わない。
聖南がここで息絶えていたら、情報が回り回ってさすがの父親も帰って来るだろう。
……万が一、死んでも孤独だとしたら聖南は、命があっても無くても「変わらない」。
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