第8話 初めてのキス

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第8話 初めてのキス

 飲んで騒いで店を出ると、夜明け近かった。三々五々に解散し、冬馬(とうま)はコンビニの前で、買い物している雄吾(ゆうご)の帰りを待っていた。なかなか彼は出てこない。冬馬が眠気覚ましに身体を伸ばすと、通りすがりの人に、腕がぶつかってしまった。 「あっ、ごめんなさい!」  すぐさま謝ったが、相手が悪かった。かなり酔っている男は、ニヤニヤと冬馬を舐めるように見、じりじり詰め寄ってきた。 「君、可愛いねえ。でも悪い子だな、こんな時間まで夜遊びして。これから俺と良いとこ行こうか。気持ち良いことしよ?」  男の吐く息が、酒や薬っぽい匂いで気持ち悪い。冬馬は握られた手を振り払った。 「やめてください!」  冬馬に拒絶されて男はカチンと来たようだ。むきになって再び冬馬の手を掴み、ぐいぐい薄暗い路地へと引っ張り込もうとする。酔っ払いにしては、思いのほか力が強い。しかも、その目の色には、いつの間にか凶暴さが滲んでいる。 (この男は危険だ)  冬馬の本能は、激しく警報を鳴らしている。 「いやだっ」  揉み合いながらも必死に抵抗していると、後ろから鋭い声がした。 「冬馬!」  雄吾は男と冬馬の間に素早く身体を割り込ませた。冬馬の手を取り、小声で囁いた。 「走るぞ」  雄吾の走りは、現役スプリンターのようなスピードだった。冬馬も、ほぼ全力で走った。泥酔者がアスリートに付いてこれるわけがない。あっという間に男を振り払った。太い通りに出たところで、雄吾は素早くタクシーを捕まえた。 「はー……」  タクシーの座席に掛け、二人は同時に大きく息をついた。 「ごめんな。レジが調子悪かったみたいで、時間掛かっちゃって。あの辺、たまに怪しいヤツがふらふらしてるんだ。冬馬を一人にすべきじゃなかった。怖かったよな?」  心配げに顔を覗き込まれ、冬馬は改めて恐怖を思い出し身震いした。 「怖い思いさせて、ほんとにごめん」  雄吾は眉をひそめ、強く冬馬の肩を抱いた。その温かさと頼もしさにホッとして、冬馬は彼にもたれた。  雄吾のマンションに帰宅した二人は交互にシャワーを浴びた。 「今日は、どうだった?」  悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべた雄吾に、冬馬は満面の笑みを返した。 「すごく楽しかったです、何もかも。お寿司もクレープも美味しかったし、東京の中でも、街によって歩いている人のファッションや雰囲気が全然違うのも面白かったです」  満足気に頷いている雄吾は、昨日と違って丈の長いスウェットパンツを履いている。冬馬は彼の歩く姿に違和感を覚えた。右脚を庇っているように見える。 「……雄吾さん。脚、見せて」  雄吾は拗ねたように口を尖らせた。 「大したことないよ」  冬馬が、彼の部屋着の裾をめくり上げると、右膝の周りが腫れていた。 「冷やして、テーピングしましょう」  雄吾をその場で床に座らせ、動かないように言った。冬馬はテキパキと保冷剤を探し出し、慣れた手つきで雄吾の膝に貼った。 「冬馬に良いとこ見せたくて、張り切り過ぎたな。けっこう速かっただろ? 俺が元選手って、納得した?」  雄吾は笑っていた。 「相当鍛えた人じゃないと、あのスピードで走れないです。……でも、こんなに腫れてる。すごく痛かったでしょ?」  雄吾の膝の熱さや腫れを見れば、同じアスリートとして、痛みや辛さは想像がつく。そんな無理をさせたのが自分だということが、悔しくて情けなかった。 「僕のせいで、無理させてごめんなさい」  少しでも楽になればと、雄吾の膝に手を当てて優しく撫でた。その指を雄吾が捉えた。ハッと見ると、彼は俯いて小さな声で話し始めた。 「六本木で酷いこと言って、ごめん。君を傷付けるつもりはなかったんだ」  冬馬に『あの男が好みのタイプか』と当てこすりを言ったことを雄吾は改めて謝った。 「……もう、謝ってもらいましたから」  その話は蒸し返さなくて良い。そう伝えたつもりだったが、雄吾は話し続けた。 「君を他の男に取られる気がして、嫌だった。 ……俺、嫉妬したんだ」  雄吾は顔を上げ、物言いたげな瞳で冬馬を見た。その眼差しだけで、彼が言わんとすることが分かった。 (言わないで……)  握られていないほうの手で彼の口を塞ごうとしたら、指先に優しく口付けられた。 「君が好きだ」  熱っぽく見つめられ、優しい声で囁かれ、冬馬の頬は瞬間的に熱くなった。指先に触れた彼の唇の柔らかい感触が、胸を甘く痺れさせる。  自分の心や身体をこんな風に揺り動かすのは雄吾だけだ。彼に抱き締められると身体が熱くなり、唇の感触を知ると、もっと触れて欲しくなる。昨日初めて会ったばかりだけれど、きっと自分も雄吾が好きだ。彼と甘い目線で見つめ合いながら、言葉にできないもどかしさに冬馬の唇は震えた。  しかし次の瞬間、冬馬の脳裏をよぎったのは罪悪感と恥の意識だった。ゲイであることを誰かに知られたら、ケニアでは生きてはいけない。冬馬は、雄吾への好意を打ち明けることをためらい、弱々しく俯いた。  その表情や態度で、雄吾は冬馬の内面で続いている葛藤を察したようだ。 「冬馬。何も言わなくて良いよ。俺も何も聞かない。ここから先は俺が勝手にすることだから。もし嫌だったら押しのけてくれていい」  雄吾は冬馬を抱き寄せた。愛おしげに頬にキスして、あやすように優しく背中を撫でた。何かと刺激の多かった一日の後だ。あっという間に人肌の温かさと雄吾の優しさにとろけ、冬馬は脱力して彼に身を委ねた。 「俺を見て」  冬馬が素直に顔を上げると、雄吾の顔が迫ってきた。あっと目を閉じた時には、唇が重ねられていた。一瞬で離れたと思ったら、何度も唇が下りてくる。その温かさと柔らかさを味わっていると、上下の唇を順番に優しく吸い上げられた。
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