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さて、家を出てきたのはいいがこれからどうしようか。
タクシーで適当な場所まで行き、景色が綺麗だという理由だけでここで降りた。ここがどこなのかも知らない。
今までの人生は、分刻みでやる事が決まっていた。
秘書が言う通りに動けば何の問題もなかった。
こうやって何をしようと自分で考える事自体初めてで、すぐ答えを出さなくてもいいという安心感と何を選んでもいいという喜びに、まるで少年のように心躍らせた。
ぼーっと忙しく行き交う人を眺め、ついさっきまで自分もあちら側だったなと思うと感慨深い。
綺麗な景色など目に入らないとばかりに忙しく行き交う人々。
何を思って先を急ぐのか。
何時間でも眺めていられそうだ。
無駄な時間というのは案外楽しいものだな。
とはいえ、今日泊まる宿くらいは確保しなくては。
ふとスーツケースが置いてあったであろう場所を見るが、何もなかった。
「ふむ…?」
遠くの方で聞こえるガタガタというスーツケースのコマの音。
あぁ…やられた。
あの中に今の俺が持っている物全てが入っていたというのに。
一人の力で何でも出来ると思っていたのに、家を出た途端に全てを失う体たらく。
自分が情けなくて、思わず笑ってしまった。
「おじさん、手助けが必要?何か、困ってるんでしょう?」
俯きかけた顔を心をその声が上を向かせた。
沢山の行き交う人々。
その中でその声の主だけが俺を見つけ、俺に声をかけた。
俺のみつめる先に立っていたのは、学生服を着たまだ幼さが少し残る顔立ちの少年だった。
がやがやと煩い雑音も一切が消え、この世界には少年と俺の二人だけしかいないと錯覚を覚える。
「おじさん、もしかして具合が悪い?俺ん家すぐそこだからそこで休む?それとも病院へ…」
心配そうに覗き込む少年。俺は思わず少年の手を取り、涙を流していた。
「え…あの……、おじさん…?本当大丈夫…?」
一瞬ぴくっと震えたが手を引く事もなくただただ心配そうに俺を見る少年。
心配気に揺れる瞳は、純粋な親切心だと分かる。
―――――コレが欲しい。
いくらでコレが手に入る?
いくらでコレが俺だけのモノになる?
いくらで……。
俺はそんな事を考えて、すぐにはっと我に返った。
違う。そうじゃない。
軽く頭を振り、少年に微笑みかける。
「目を離した隙に荷物を取られてしまったようだ。金も全てだ。それで困っていた」
「わ、そんな大変じゃん!警察に行こう?」
「いや…警察は……」
警察になんか行ったらたちまち家に連れ戻されてしまう。
そうなってしまえばもう二度と一人で外に出る事は叶わないだろう。
この少年とも二度と会えない。
「―――何か事情があるんだね。ん――じゃあやっぱり家においでよ。家、喫茶店やってるんだけど、お店手伝ってくれたら狭いけど俺の部屋で寝泊まりさせてあげるから。寒空に無一文で途方に暮れるよりましでしょう?」
「いいのか?見ず知らずの人間を…迷惑だろう?」
「ううん。これも何かの縁でしょう?俺の名前は葉山花音。18歳。名乗り合えば見ず知らずじゃないよ?これから学校だから家に案内したらそのまま行くね」
「私は―――天……天だ」
家名を言いたくなかった。
俺は何も持たないただの天としてこの少年、花音と向き合ってみたかった。
そしていつか花音を……。
「―――タカシさんね。よろしくね」
そう言って微笑むキミはとても美しい。
どんな宝石よりもどんな美術品よりも。
俺の心を魅了し、掴んで離さない。
「よろしく頼む」
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