エピソード 1

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目が回るような忙しさだった。 毎日こうなのかと尋ねるとそうではないと言う。 忙しいわりにお客の回転も悪く、やれ水だコーヒーのお代わりだと、俺を呼びつける。 パニックになる事はないが、コーヒーのお代わりなどサービスなのでいくら忙しくしていても売り上げがのびるわけではなかった。 明らかに俺目当てのお客にこの店のキャパを大幅に超えていた。 お客に対応しながらもどうするべきか考えていた。 いかに効率よく売り上げをのばすか…。 そしてすぐにはっとする。 俺はここではただの居候だ。経営について考える必要なんてないのだ。 身体に染み付いた物はそうすぐには抜けないという事か。 小さく苦笑する。 その後は無心で休みなく働き続けていると花音が学校から帰って来た。 が、いつもと違う店内に驚き固まっているようだ。 「おかえり。どうかしたのか?」 接客の合間に花音に声をかけたが、花音は俺をみつめるその瞳は揺れていた。 ―――? 「ただい―――ま…」 なんとか絞り出したといった風な声だったが、次の瞬間には普段通りの花音に戻っているようだった。 と言っても俺は花音の事はまだ殆ど分からないので、それが普段通りなのかも分からないわけだが。 少し頬が赤い気もする。 「俺も着替えてくるね」 にっこり笑って着替えに二階へとあがって行った。 首をかしげる俺におじい様は寂しそうな声で言った。 「あの子の父親と重なって見えたのかもしれないねぇ」 父親…花音は18歳だと言っていたな。 20歳も歳が離れていては確かに恋人というより親子といったほうがしっくりくる。 俺としては親子などとは思っていないんだがな。 胸がざわざわと騒めく。また新しい感情か。 だが、この感情はあまり嬉しくないな。 「ふむ…」 着替えた花音とホール係を交代し、俺は奥で皿洗いをする事になった。 コーヒーはカウンターの中で淹れるのだが、キッチンは奥にありお客からは見えないようになっている。 元々おじい様と花音の両親の3人でやっていたからこの造りになったようだ。 俺は奥に引っ込んだ後、お客に見つからないようにこっそりとホールの様子を伺っていた。 すぐに潮が引くようにどんどんお客は帰って行った。 それからしばらく見ていたが新しい来客はなかった。 普段の様子がこの閑散としたものだというならここの経営も危ういな…。 やはり何か考えなくてはいけないだろうか……。 まぁ、まずは皿洗いだ。 さて、溜まった皿を洗うか。 ………。 シンクに積まれた使用済みのカップや皿を見て、周りを見回し固まった。 そのまま5分が経過し、10分が経過した。 『皿洗い』という言葉は聞いた事があった。 だが、何をどうやって洗うのだろうか?カップもあるが『皿洗い』というくらいだ、皿だけ洗うのか?いや、しかしカップをそのままというわけにもいかないだろう。 こういったものに経験がなく、必要とも思っていなかったので全く想像がつかない。 しかし、黙ってこうしていてもいつまで経っても片付かない。 どうにかせねば。 このブラシで……?いやスポンジか…?いっそ素手か? ブラシとスポンジを手に取り交互に見た。 「え?何してるの?…タカシさん?」 花音が慌てたようにキッチンに入って来た。 「花音、恥ずかしいのだが洗い方が分からないんだ」 俺は正直に言う事にした。 ここで変に見栄を張ってみてもいい事はない。 「へ?本当に?」 「あぁ、私は嘘はつない」 真剣な顔で花音の瞳を見て言うと花音は「ぷっ」と吹き出した。 「もう、タカシさんって可愛いね。いい大人が子どもみたいだ。あはは」 そう言って楽しそうに笑って、また俺と目が合うと花音はさっと顔を背けたが、その首が薄っすらと朱に染まっているのが見えた。 ドキドキと少しだけ鼓動が早くなった。 これはどういう感情だ? ふわふわと心地がいい。 「じゃ、じゃあ、教えるから、やってみて?」 「あぁ、頼む」 教えられた通りに『皿洗い』を実践する。 なんだ、案外簡単なものだな。 ドヤ顔で花音を見ると、花音はまた吹き出していた。 そんなにおかしいか? 少しだけむっとすると、また笑って、花音の楽しそうな様子に俺も少しだけ楽しくなった。 皿洗いも終わりホールを覗くと、子どもが二人カウンターに座ってオムライスを食べていた。 「あぁ、天君、お疲れ様。今日は一日疲れただろう」 「いえ、マスターの方がお疲れになられたのでは?」 「いや、私は大丈夫。天君が殆どやってくれたからね」 「ごちそうさまでした」 そう言って手を合わせて、子ども二人はお金も払わず出口へと歩いて行く。 おじい様の方を見てもにこにことしていたので、俺は笑顔で二人を見送った。 「ありがとうございました」 俺のそんな様子におじい様は満足気に頷いた。 「天君、キミはこういう接客をやっていたのかい?」 「いえ、私は……」 「あの子たちはね近所の子たちで、母親がシングルマザーで夜遅くまで働いるんだが、ごはんをたらふく食べる事ができないようでね。毎日夕食をうちに食べに来るように言ったんだよ。お節介かもしれないけれど美味しい物を食べると人は幸せになれるんだ。私は自分が関わった人だけでも幸せにしたい。そんな事を思う私を傲慢だと思うかい?」 「―――いえ」 「あの子たちもただもらうだけじゃなくて、毎朝うちの店の周りを掃除してくれているんだよ」 「そうですか」 傲慢といえば俺の方が傲慢だろう。 頭ではおじい様の話を素晴らしい事だと分かる。 だが、里見天としてはくだらないと考えてしまう。 弱者は切り捨ててきた。それが里見天だ。 今もそれがおかしい事とも思わない。 だが、俺は今はただの天だ。里見天ではない。 おじい様や花音のような優しさが自分にもあればいいのに、と思ってしまう。 家を出たという事はそういう事だったのに、いつまでも里見天に引きずられる……。 とはいえ、たかが子ども二人分の食事だが毎日となると…。 それではこの店の経営は厳しいだろう。 「あの、今日みたいな感じですとスタッフを数名ふやし、時間制にして回転率を上げれば無理なく売り上げをのばす事ができると思うのですが」 俺は余計な口出しだと知りつつ、ついこの店の今後について提案してしまう。 おじい様はゆっくりと首を横に振った。 「私はねここに来て下さるお客さまにゆっくりとくつろげる空間を提供したいと思っているんだ。それにあの子たちにもゆっくり落ち着いてごはんを食べてもらいたいし」 「ではどのように」 顔には出さないが少しだけイラっとしてしまう。 理想では飯は食えない。 「そうだねぇ。他のお客さまのご迷惑にならないよう午前と午後の空いた時間に1時間ほど天君にホールをお願いできるかい?キミには悪いけど、キミがホールに立って忙しく働く姿は…息子を思い出すんだ。キミ目当てのお客さまにも満足いただけるだろうし、どうだろうか?」 と、笑顔で理想を語るおじい様に俺は笑顔で返した。 優しくありたいと思うのに、頭の中で俺は『甘いな』と今も考えてしまう。 そしてそんな事を考える自分に嫌悪感さえ覚える。 どうにもならないちぐはぐな感情が自分を支配する。 「わかりました。できるかぎり頑張らせていただきます」 どちらにしても午前午後の2時間でもうけを出すしかない。 それが今の俺の妥協点。 俺をみつめる花音の瞳が熱を帯びていた事に俺は気づかなかった。 そうして本日の仕事は終わった。
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