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ガタンという音が聞こえて目が覚めた。
店番をしていたはずなのに、なぜか見知らぬ薄暗い室内にいた。眠い目をこすりながら、辺りを見回してみる。知らない場所のはずなのに、何だか懐かしさを感じる不思議な部屋だった。
目の前には突っ伏して眠っていた丸いちゃぶ台。その上には、戦隊ヒーローが描かれた給食ナフキンが被せられた、こんもりした何かが置かれている。
破れ隠しの千代紙が張られたふすまが静かに開くと、そっと母親が部屋に入ってきた。
「あら、まだ起きてたの?」
俺に気づいた母親は、目をまん丸くして驚いた。巻き毛で柄物のワンピースを着ている。昔、飲み屋で働いている時があったが、その当時の母のようだ。
若い時の母の姿を懐かしく眺めていると、突然、視界がぐるりと大きく動いた。
俺の意志とは関係なく身体が動き、ギシギシと音をたてながら小走りで母親に近付き、「早く早く」と腕を引っ張り、母親をちゃぶ台に座らせていた。
母親と向き合うと、俺はちゃぶ台上のナフキンを横からそっと取った。ナフキンの下から、てっぺんに目玉焼きがのせられた焼きそばが姿を見せた。
思い出した。
これは、施設に入った祖母の家に、母親と二人移り住み、初めて迎えた母の誕生日の記憶。
夕暮れの中、わずかな小遣いを握りしめて近所の食料品店に駆け込み、店主に相談したのだった。
「今日は母ちゃんの誕生日なんだ。焼きそばお腹いっぱい食べさせたいんだ」
店主は強引に渡した小銭を数えると、口ひげを触りながらうーんと唸った。
「じゃあ、ちょっとこっちおいで」
店主について店の奥の暖簾をくぐると、小さな調理場になっていた。この店で売っている煮物といった総菜類をここで作っているのだろう。
この店で売っている総菜は和食中心で、洋食や中華のようなボリュームと派手さはないのだが、何度食べても飽きない味わい深さと、口にした瞬間に「これこれ」と顔をほころばせる安心感があった。
俺も子供ながら、「ここのおかずは美味しいな」と思っていたし、何よりも、母がこの店の総菜が大好きだった。この店に行けば母が喜んでくれるものがあるはず、そう思って駆け込んだのだった。
店主は開け放たれた冷蔵庫の中をごそごそと漁り始め、銀色のトレーに次々と食材を入れていく。店主の背後に回り込んでトレーの中を覗き込むと、袋に入った中華麺ともやし、ラップにくるまれた少量の肉と卵一つが入っていた。
「その予算でお腹いっぱいってなると、こんなもんかな?じゃ、作るぞ。一緒に」
一緒に?俺が作るの?と混乱していると、店主はフライパンの置かれたコンロに火をつけてこう言った。
「俺が作ると完全予算オーバーだぞ?ほら、早く油引いて。ちょっとずつな」
家のサラダ油の2倍くらいある業務用の油を手渡され、こぼさないように入れすぎないように、恐る恐るフライパンに注いだ。熱せられた油から湯気が立ち始めると、店主は俺の隣から次の工程をテンポよく指示していく。
はずは肉、はい、塩コショウふって…という感じで調理を進めていくと、もやしがたっぷりはいった、大もり焼きそばができあがった。最初から最後まで一人で作った、初めての料理だった。パーティー用オードブルに使われるような、こじゃれた銀色の容器に焼きそばを盛り付けると、もやしと肉だけの焼きそばが豪華な一品に早変わりし、心が躍った。
「これだけだと、色取りが寂しいからな。はい、次は目玉焼き」
店主は新しいフライパンをコンロに置いた。
「俺、目玉焼きは作ったことあるんだ」
俺がそう言うと、店主は笑顔で「そうかそうか」と言いながら、俺の目玉焼き作りを見守ってくれた。卵を割る時にちょっと殻が入ったが、黄身がぷっくりとした半熟の目玉焼きが出来上がった。
「よし、次は目玉焼きのせて…。この辺りかな、うーん、もう少し…」
焼きそばの真ん中あたりに目玉焼きをのせるのは、今日の調理の中で一番難しかった。結局、店主が俺の手の上から持ち手を握り、フライパンを一緒に傾けながら目玉焼きをゆっくり滑らせ、焼きそばのてっぺんに盛り付けた。雪化粧した山の頂上付近から朝日が覗いているような、美味しそうな焼きそばが完成した。
「ごちそうだな。母ちゃん喜ぶぞ」
美味しそうな湯気と匂いを漂わせた焼きそばは、初めてにして最高の出来だった。俺が料理の魅力を知った瞬間だった。
店主に何度もお礼を言い、急いで家に戻り、母の帰宅をまだかまだかと一人待ちわびたのだった。
母は目の前に置かれた焼きそばを見ると一瞬不信がったが、身振りで手ぶりで事のいきさつを説明し、強引に納得してもらった。
「分かった分かった。じゃ、ありがたく、いただきまーす」
母は俺に向かって微笑みながらパチンと手を合わせ、焼きそば一口をゆっくりと口に含んだ。ちょっと膨れた頬が、もぐもぐと左右に動いた。
美味しいかな?気に入ってくれたかな?俺は母の一挙守一動をじっと見つめるた。最初の一口を飲み込むと、母は声にならぬ声を小さく漏らし、目を潤ませながら、焼きそばを次から次へと口に運んだ。
泣いているのか、笑っているのか、美味しいのか、美味しくないのか。母の様子からはまだ読み取れない。
口の中いっぱいの焼きそばを飲み込み、「ふう」と息をついた母に、聞いてみた。
「母ちゃん誕生日で、焼きそば好きだから、作ってみた」
母は笑顔で「うんうん」と頷くが、それ以上の言葉はでてこない。
もやしばっかで美味しくないかな?ちょっと不安になってきて、俺は黙り込んでしまったんだっけ。
母は何か言おうとしては言葉を飲み込みこむような仕草を何度か繰り返し、満を持して「えっと・・・」と声を出した瞬間、母の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。
「えっと、ごめん。凄く嬉しくて美味しくて、母ちゃん泣いちゃった」
母が涙を流しながら照れくさそうに笑った。止まらぬ涙を手で拭うたびに、滲んだマスカラが目元に黒く散った。
俺はそんな母の姿を小さく震えながら見つめていた。料理って、人をこんなに喜ばせることができるんだ、と静かに感動していた。
母の美味しい顔をまた見たいし、もっとうまいものを作れるようになりたい。そして、たくさんの人に、美味しい笑顔になってもらいたい。
あの時強くそう思って、俺は料理人を目指したんだよなあ…としみじみ思い出した。すると、妙にリアルだった思い出の場面がぼんやりと霧がかったようにぼやけていった。
ぼやけていた視界が、再びクリアになってきた。
徐々に見えてきたのは、入力途中のエクセル画面。
今日はいつもより早く完売し、溜まっていた伝票整理をしていたのだった。
ここは俺の店。例の店主から引き継いだ小さな総菜屋。
焼きそばの件の後、俺は店主に料理を教えてほしいと頼み込み、学校が終わると調理の手伝いをするようになったのだ。最初は洗い物くらいしかさせてもらえなかったが、店主はなんだかんだ言って野菜の切り方や仕込み方を少しずつ教えてくれたのだった。押しかけの足手まといだったはずが、いつの間にか一緒に調理場に立ち、バイト代をだしてくれるまでになっていた。
もはや調理が生活の一部になっていた俺は、迷うことなく調理師学校に通い、卒業後はプロとしての経験を積むために料理人として有名割烹で板前として修業する日々を過ごした。
それからしばらく時が経ち、他の店に移るか独立するか迷っていた時に店主から連絡があり、自分は引退するから店を譲りたいとこう打診されたのだった。
「俺に子供はいないし、この店を次に任せられるのはお前しかいないから。後は好きにやっていいぞ」
店主から引き継いだレシピを残しつつ、リニューアルオープンした店は、有名割烹出身の料理人が作る総菜屋として口コミで人気を呼び、ローカル情報誌やグルメ雑誌の取材を受けるまでになった。
「ここまで来るのに、色々あったよなあ」
独り言を言いながら、店じまいのために表へと向かう。
自分の店を持ってから、料理人だけでなく経営者としての立場もでき、最近は売ることばかり考えていた気がしなくもない。あの夢は、「時には初心に帰れ」という戒めだったのだろうか?
店の外に近所の小学校の制服を着た少年が一人立っているのが見えた。
少年は店の奥から出てきた俺に気づくと、不安そうな顔をしながら話しかけてきた。
「あの…お店くらいですけど、もう終わりですか?」
「ああ、今日はね、もう全部売れちゃったんだよね」
「ええ……」
少年は、悲鳴のような小さな声を上げ、がっくしと肩を落とした。
「そんなあ…。今日はお母さんの誕生日なのに…」
…何だか、どこかで見たことある場面。
「お金は、あるんだけど…」
少年はくしゃくしゃになった千円札をそっと小さな手のひらに置いた。
「じゃあ、ちょっと考えてみるから。こっちおいで」
俺は店の中に入ってきた少年と一緒に、暖簾の先の調理場へと入った。
美味しい笑顔のために、一肌脱ごうじゃないか。
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