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第12話 更なる心の傷【春樹】
親友の機転に救われ、レイプは未遂で済んだ。保健室で頬や額の傷の手当てを受けていると、岳秋が迎えに来てくれた。自分の上着を脱いで春樹に着せかけてくれ、肩を抱いてくれた。いつも通りの義兄の優しい表情を見て、ようやく生きた心地がした。
現場に駆けつけてくれたベテラン体育教師と、もう一人の男性教師が保健室を訪れた。事実関係の確認の後、ベテラン体育教師は春樹に尋ねた。
「なぜ、あいつらが白石に目を付けたか、心当たりはあるか?」
口調は優しかったが、嘘を見逃さんとする目は厳しかった。
「さあ。僕には分かりません。あの教室で会うまで、彼らとは一度も話したこともないので」
言葉少なに春樹は答えた。能面のように白く無表情な顔から、春樹の受けた痛手がいかに深いか、正確に察したのは岳秋だけだった。岳秋は、牽制のように会話に割り込んだ。
「今日お話しなければいけない話は、他に何かありますか? そろそろ、義弟を病院に連れていきたいのですが。怪我に関する診断書を取らなければいけませんので」
その後、岳秋と教師の間で若干押し問答があったようだが、春樹の記憶は定かではない。とにかく眠かった。強い刺激を受けて頭の芯は興奮している反面、外界と自分の間に、薄く固い膜が張られている感覚もあった。全ての音や光がぼんやりしている。岳秋以外の誰と口を利くのも億劫だった。
岳秋に連れていかれた病院では、全てがスムーズだった。彼が事前に話を付けていたのだろう。医師も看護師も事情を理解していて、春樹への質問は最小限だったし、不用意に身体に触れることもなかった。検査を終え、岳秋の車の助手席に乗り込んだ瞬間、春樹は気絶するように眠りに落ちた。
事件後、顔の怪我が落ち着くまで春樹は数日学校を休んだ。その間に養護教諭が紹介してくれた精神科医へ、半ば強引に連れていかれた。
この青山医師との出会いが、春樹の人生を大きく変えることになった。
***
青山医師は、広い額と通った鼻筋が知性的な印象の、四十代手前の男性だった。
「初めまして、白石 春樹君。精神科医の青山です。春樹君て呼んで良いかな?」
無言で頷くと、彼は春樹をいたわるように静かな薄い笑みを浮かべた。
「春樹君。……君の人生は、大きな悲しみや苦しみの連続だったんだね」
養護教諭からの紹介状を見せてくれた。ワープロ書きで複数枚に渡っている。今回の事件だけでなく、両親や姉を事故で喪いPTSD症状があったとも書かれていた。養護教諭が岳秋に聞いて、まとめたのだろう。
「今更ですけど、これ僕が見て良いんですか?」
興味深く紹介状を読みふけった後、春樹は顔を上げ、待っていてくれた青山医師に尋ねた。
「僕は良いと思ってる。君の心の話だしね。医者によって、考え方は違うかもしれないけど。他に、春樹君の性格や考え方に強く影響した出来事や、深く傷付いたことは何かあったかな?」
春樹は少し間を置いて答えた。
「……いえ。特には」
青山医師は机の上のパソコンに向かい、春樹の話を入力している。
「あの、青山先生。僕は、病気ですか?」
緊張感に耐えかねた春樹は、単刀直入に一番の懸念を口にする。入力の手を止めて春樹に目線を戻し、青山医師は表情を変えず答えた。
「今は事件直後のショック状態だろうね。病気に移行するかは分からない」
「そのことと、両親や姉が事故で亡くなったことは、関係あるんですか?」
春樹の表情と声は硬く、反撥を隠さない。
「関係あると思うよ。交通事故と性暴力は、自分のせいではないのに突然巻き込まれるという点が非常に似ている。だから、遺族や被害者が抱く感情や、受ける精神的ダメージも似てるんだ。どちらもPTSDや、パニック障害等の不安障害になることも少なくない。それと、ダメージは重なるにつれ深刻になる。同じような性暴力に遭った人の中でも、春樹君の受けるダメージは大きいと思う」
不満げな表情を浮かべて目を伏せた春樹に、青山医師は同情するような眼差しを向けたが、すぐ冷静に戻って説明を続けた。
「あくまで一般論だけど。遺族や被害者が陥りがちな思考の典型例は『自分のせいで家族が死んだ』『自分が悪いから性暴力に遭った』」
春樹は少し怯えたように青山医師を見上げた。
「春樹君も、同じように感じたことがある?」
穏やかに尋ねられ、春樹は、ためらいながら無言で頷いた。
「性暴力サバイバーの本人向け、それとパートナー・恋人向けの冊子があるから、良かったら読んでみて」
彼は春樹に恋人の有無は尋ねなかったが、優しい色使いの薄くて小さい冊子を一部ずつくれた。
「サバイバー……」
表紙の文字を指先でなぞりながら呟くと、青山医師は大きく頷いた。
「近年は『辛いことがあっても生き抜いて、自分自身の人生を切り拓く』という前向きな意味で自らこう称することが増えているんだよ」
青山医師は穏やかに微笑んだ。
「経過を教えて欲しいから、また一週間後に来てね」
病院から帰宅すると、岳秋が床にあぐらで座り込んでいた。彼の商売道具でもあるカメラの手入れをしている。
「お帰り。ちゃんと俺が呼んだタクシー乗ったか? お医者さん、どうだった?」
「うん、乗ったよ。嘘のなさそうな人だと思った」
短い答えだったが、春樹が青山医師に好感を持ったことを伝えるには十分だったようだ。岳秋は満足げに何度か頷いている。
「あ、ハル。そこにあるドライバー取ってくれよ。マイナスの細いやつ」
春樹が頷いて工具を手に取ろうとした時。うっかり、鋭い側に指を伸ばしていた。
「危ない!」
岳秋は鋭く叫び、春樹の手首を掴んだ。
瞬間、春樹の頭の中は真っ白になった。
我に戻って見たものは、部屋の反対側の隅に尻餅をつき、呆然とした表情を浮かべた岳秋の姿だった。物言いたげに岳秋を見つめると、彼はハッとして、ぎこちない笑みを顔に貼り付けた。
「ごめんな、驚かせて。俺が、大声出して、突然お前の身体に強く触ったから。あんなことがあった後なのに、配慮が足りなかった」
岳秋は遠慮がちに元いた場所ににじり寄った。
「……僕、アキを突き飛ばしたの?」
春樹が半信半疑で尋ねると、岳秋は一瞬、眉を片方だけ引き上げた。
「ああ。お前、すごい腕力あるのな。でも、よく考えたら、あんなガタイ良い四人をやっつけたぐらいだもんな。俺一人吹っ飛ばすなんて余裕だよな?」
彼は、いつも通りの快活な表情と口調に戻っている。何でもないように振る舞っている岳秋の姿が、余計に春樹を苦しめた。彼に害意がなかったことは、分かっている。それなのに、手首を掴まれただけでパニックに陥り、何メートルも強く突き飛ばしてしまった。レイプ未遂時に手首を拘束されたことを思い出したからに違いない。
大好きな人すら激しく拒絶してしまった自分に、春樹は強い衝撃を受けた。徒党を組まなければ悪事に及ぶこともできない、小心な彼らを軽蔑していた。そんな彼らに蹂躙されかかったことが、自分の性的な自尊心を傷付けているのは、屈辱以外の何物でもなかった。
その夜、岳秋と一緒に入浴しようとしたが、脱衣所で春樹は立ち竦んだ。下卑た目に晒され、触れられた自分の肌が、汚らわしく感じた。とても岳秋に見せられない。
「無理するな。一緒に入っても良いと思ったら、その時は声かけてくれよ。それまでは別々に入ろうぜ。このことを気にするなよ? 元々、毎日一緒に風呂入ってるほうが変なんだからさ」
青ざめて俯いた春樹に気付き、岳秋は何気ない調子で微笑んだ。
男達に汚い欲望を向けられたことへの悔しさ。
少なからぬ心の傷を負った自分への情けなさ。
大好きな岳秋と触れ合うことすらできないことへの悲しさや苦痛、申し訳なさ。
あまりに多くの感情が胸に去来し、春樹は言葉を失っていた。無言で頷き、うなだれて自室に戻ろうとした時、岳秋が呼び止めた。
「ハル。……お前は強くて、きれいだよ。事件の前と今と、何も変わってない。知恵と力で、自分を守り切った。あいつらは、お前の心も身体も汚してはいない。あんなやつらに、そんなこと、できるもんか」
脱衣所の床のタイルを見つめていた春樹が顔を上げると、岳秋と目線が合った。いつになく岳秋の眼差しは真剣で強かった。涙が湧いてきたが、どうにかこらえた。
「じゃあ僕、後から入るよ。……ありがとう、アキ」
最後に取って付けたような感謝の言葉だったが、照れ屋でぶっきらぼうなのは義兄弟共通の気質だ。春樹の本音は正しく伝わったようだ。岳秋は、優しく目を細めた。
脱衣所まで持って来た着替えを持って自室へ取って返す。春樹は不安を覚えていた。やっと岳秋と心が通じ合ったのに。自分はこの先、彼と肉体的に触れ合えるのだろうか、と。
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