第1話 平凡な、そして儚い幸せ【岳秋】※

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第1話 平凡な、そして儚い幸せ【岳秋】※

 トントントン。  まな板で野菜を刻む軽快な音。そして味噌汁と少し甘い卵焼きの匂いが、寝室まで漂ってくる。  黒崎(くろさき) 岳秋 (たけあき)は、いつも通りの朝食を(こしら)えてくれる新妻(にいづま)夏実(なつみ)に感謝しながら、まだ彼女の温もりの残る布団を抱き締めて寝返りを打った。布団でゴロゴロしながら彼女の気配を感じ、「アキー。ご飯よー」と呼び掛けられるまでの時間が、岳秋が新婚の幸せを一番素直に実感できる時間だった。  今日は軽やかな足音がする。同居している義弟(おとうと)春樹(はるき)が起こしに来てくれたようだ。すっと障子が開く。寝転がったままの岳秋の目に、学生服の黒いズボンと白いソックスを履いた春樹の足が見えた。 「アキー。ご飯だよ」  岳秋は唸り声を上げて布団から起き上がった。 「うわ、すごい寝癖」  春樹が、岳秋の寝起きの頭を見て、呆れたように軽く目を丸くした。岳秋は、二十センチほど自分より小柄な春樹の首に腕を巻き付け、ヘッドロックするような素振りでじゃれついた。春樹は笑い声をあげて逃れようとする。春樹の無邪気な笑顔に、岳秋もつられて笑いながら二人は台所へ向かう。 「あらぁ。アキ、すごい寝癖」  じゃれ合いながら食卓に現れた二人に、夏実も楽しそうに笑った。 「なんだよー。姉弟揃って、朝から俺をdisるの?」  岳秋が大袈裟(おおげさ)に拗ねた顔を作って席に着くと、夏実と春樹は、顔を見合わせて肩を竦めた。実の姉弟とは言え、二人は、顔立ちも、表情や仕草も瓜二つだった。 「いただきます」  三人で声をそろえて手を合わせ、夏実の手料理に舌鼓を打つ。岳秋が手作りの糠漬けをかじっていると、夏実が、ふと思い出したように言った。 「そうだ。今日、七か月検診だから。病院に行ってくるね」 「車で送って行こうか?」  フリーランスのジャーナリストの岳秋は、時期にもよるが、比較的、時間の自由が利く。こういう時は、身体の重そうな夏実を甘やかしてしまう。 「大丈夫。最近体重増えてるから、もうちょっと歩きなさいって、こないだ先生にも叱られちゃったし」  夏実は軽く顔をしかめた。彼女はそれほど悪阻が重いほうではなかったが、安定期に入ってからは食欲も戻り、医師から体重の増えるペースが早いと注意されていた。 「もし気が変わったり、帰りにどっか寄りたいとかあったら、電話してよ」  岳秋は軽く微笑んだ。  岳秋と夏実は、一年前に結婚した。  大手新聞社の記者だった岳秋は、三年前、独立と同時にIターンで、ここN県U市に移住してきた。確定申告などでお世話になる税理士事務所で出会ったのが、事務員の夏実だった。  岳秋は、初対面で、まず彼女の美貌に惹きつけられた。色白で細面、切れ長で二重の目、鼻筋の通った美人だった。しかも、一見、少し冷たさを感じさせるほど整った顔立ちなのに、人柄は明るくしっかり者だった。一緒に仕事をするようになってすぐに、岳秋は彼女の人となりにも惹かれた。  出会った二年前、まだ二十三歳だった夏実の仕事の手際良さに岳秋は驚いた。同じ事務所の女性事務員に出張のお土産を差し入れ懐柔して聞き出したところ、夏実は両親を早くに亡くし、年の離れた弟を育てるため、大学進学を諦め高卒で働いているとのことだった。岳秋は、そんな健気さや芯の強さにも惹かれ、夏実に交際を申し込んだ。 「俺、夏実さんより七つも年上のオッサンだし、フラッと外国に取材に行っちゃうことも多いと思う。こんな男だけど、もしよかったら」  夏実が頬をうっすら染めながら(うなず)いてくれた時、岳秋は天に昇るほど嬉しかった。  全く女心に響くと思えない不器用な告白が、なぜ魅力的な若い女性の心を打ったのか。岳秋は付き合い始めた後、夏実に尋ねた。 「俺の告白って、相当イケてなかったと思うんだけど。なんでオーケーしてくれたの?」 「岳秋さんが撮ってる子どもの写真を見て、きっと優しい人なんだなって思ってたの。それに、私が小さい弟を育ててるって知っても、引いたりしないで、むしろ『偉いね』って感心してくれたでしょう? お金の使い方がきれいなことは税理士事務所の仕事で知ってたし。私も、岳秋さんのこと良いなって前から思ってたの」  夏実は少し照れた表情で、岳秋を見つめた。女心に疎い岳秋でも、(彼女も俺に恋してる)とはっきり分かった。一度恥ずかしそうに目を伏せた彼女の長い睫毛を、ぽおっと見詰めていたら、甘えるように見上げられ、胸がときめいた。そうっと手を伸ばして長い髪に触れると、彼女の瞳が揺れた。岳秋は彼女に口付けた。震えていた彼女を優しく抱き締め、広い肩と胸で彼女を包みこむ。 「好きだよ」  ようやく口にできた告白は、緊張のあまり、喉に引っ掛かって微妙に噛んだし、声は上擦っていた。しかし、まるで二枚目俳優からこの上なく甘い言葉を囁かれたかのように、夏実は潤んだ瞳で切なげに岳秋を見つめ、離れたくないと言うように彼のシャツの袖が皺になるほど強く握り締めた。夏実が好いてくれているということが、岳秋に男としての自信とやりがいをくれた。  美しく優しい妻。彼女に生き写しの美形で、少し生意気なところも可愛い義弟。もうすぐ生まれる赤ちゃん。  自分の手にした幸せが、突然儚く消え去り、夏実と春樹の姉弟との関係が大きく変わっていく運命にあったなどとは。岳秋は全く予想だにしなかった。
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