第5話 傷だらけの再出発 (1/2)【岳秋】

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第5話 傷だらけの再出発 (1/2)【岳秋】

 夏実(なつみ)を含む三人一組だった家族が、男二人だけになった当初は、想像以上に寂しかった。日常生活の中で、夏実の不在を二人で助け合って埋めていくことが、ささやかな心の救いだった。  春樹(はるき)が洗濯機を回して学校に行き、岳秋(たけあき)が洗い終わったものを干す。  春樹が食事を作り、岳秋が食べ終わった後の食器を洗って片付ける。  お互いが相手を思いやり、「彼の為にも」と思えることが、これまで通り仕事や学校をこなす上で力を与えてくれた。  八年前に実の両親をも交通事故で(うしな)った春樹は、遺族の「心の回復のプロセス」にも通じていた。 「今は悲しむべき時だと思う。そういう時は、思う存分悲しんだ方が良いんだって。我慢したり無理したりすると、余計こじれるって。両親が死んだ時、『遺族の会』に行った姉さんが教わったんだ」   二人は、夏実を喪った悲しさを家の中では隠さず、心ゆくまで彼女の思い出を語り合い、思う存分涙を流した。  夏実の不在は、心も身体も一部を奪われたほど辛かったが、岳秋は春樹の存在に救われていた。だから無意識のうちに『春樹も自分が傍にいて、それなりに助けになっているだろう』と考え、彼の心身状態も自分と同様だと思い込んでいた。  しかし数か月後、春樹に少しずつ異変が起こった。  顔色が青白く、目には光がなく、(くま)ができている。いつもつまらなそうな、無気力な表情だ。食も以前より細くなった。元々細かった腕は木の枝のようだ。  何やかんや理由を付けて、入浴を嫌がる。身体や髪の汗っぽさが気になる時は洗面所で洗髪し、身体は絞ったタオルで拭いているようだ。  気になる行動や変化をメモし、インターネットで調べた。  おそらくPTSD(いわゆる「トラウマ」)だろう。  特に思春期の患者に強いと評判の精神科医を、黙って岳秋一人で受診し相談した。 「お義兄(にい)さんの予想通り、義弟(おとうと)さんは、PTSDだと思います。肉親を突然の事故で喪ったご遺族がPTSDで苦しむケースは、非常に多いんです。数年前にご両親を亡くし、最近お姉さんまで亡くされたそうですので、まず間違いないかと。お風呂に入りたがらないのは、もしかしたら浴室でパニック発作があったのかもしれません。閉所ですので」  柔和そうな精神科医は、穏やかに言った。 「そうですか……。一番良いのは、本人を連れて来ることだと思うんですが。もし来たがらなかったら、家族の私にできることは何でしょうか?」  目の前の精神科医とは対照的に、鋭角的な輪郭、切れ長の目、意志の強そうな太い眉、太目の鼻柱の岳秋は、真剣な表情でメモを取った。新聞社時代の師匠に倣い、いまだに岳秋も手書きメモを愛用していた。   「大人は『十五歳は、もう大人』と考えがちです。でも、思春期の患者さんは、必要以上に大人のふりをして、頑張り過ぎることがあります。まだまだ心も身体も不安定なんです。子どもが怖い体験をした時と同じように接してあげるのが良いと思います。  お二人のご関係が良いようなので、不安そうな様子があれば、義弟さんの身体に触れて安心させてあげてください。それと、なるべく一人きりにしないことです。悪夢にうなされている可能性もあります。一緒の部屋で寝てあげるとか、一緒にお風呂に入るとか」  岳秋は真面目にメモを取り、深く(うなず)いた。丁寧にお礼を述べ、診察室を出た。 「なあ、ハル。一緒に風呂入って、俺の背中流してくれない? 四十肩っていうの? 最近、腕が上がりづらくて洗いづらいとこがあるんだよ」  精神科医に相談した夜、さっそく岳秋は自分の肉体的不調を理由に、下手に出て頼んだ。心優しく責任感の強い春樹は、こう言えば断らないだろうと思ったのだ。 「……良いよ。けど、アキ、運動不足じゃない? まだ四十までだいぶあるのに」  予想以上に春樹はあっさりオーケーしてくれた。  男同士とは言え、温泉でもないのに、良い大人が一緒に入浴するのは、岳秋ですら多少抵抗があったのに、難しい年頃の春樹が嫌がらなかったのは驚きだった。 (やっぱり、一人で入るのは不安だけど、風呂には入りたかったのかな……。それなら、俺に相談してくれれば良いのに……)  岳秋は複雑な思いで、自分に背を向けて服を脱いでいる春樹を見つめた。白く細い彼の背中に、一瞬、夏実の身体を連想し、慌てて目を逸らした。 「うわ。アキ、日焼けの跡すごいよ。胴と、首とか二の腕との繋ぎ目がくっきり」  春樹は呆れながらも、丁寧に岳秋の背中を流してくれた。 「俺の仕事は足で稼いでナンボだからな。こんだけ外を走り回ってたら、そうなるだろ。……ハル、そこ、もうちょっと(こす)って。……あー。気持ち良いー」  岳秋は、お気楽な調子を装って、わざと我儘(わがまま)を言った。 「……姉さんにも、背中流してもらったこと、あった?」  春樹の質問の意図が掴めず岳秋は一瞬戸惑ったが、いつもの思い出話のように淡々と思いのままを語った。 「そういや無いなぁ。泊りがけで旅行とかしたことないし」 「いや、よく知らないけどさ。結婚前に二人でイチャイチャする時、一緒にお風呂入ったりしなかったの?」  春樹は、力を入れて岳秋の背中を擦りながら言った。 「……おま……、聞くねぇ。こっちが気ぃ遣ってるのに。大事な姉さんが男とイチャイチャとか、想像したくないだろうと思って、その手の話題は避けてんだぞ? それに、未成年とする話じゃねーだろ」  岳秋がぶっきらぼうに言うと、春樹は含み笑いしながら切り返した。 「僕、もう中三だよ? 彼女がいて、そういうことしてる同級生もいるからね。それぐらいの話じゃ、驚いたりショック受けたりなんか、しないよ」 「他の奴らは、どうでも良いよ。ハル、お前は彼女とかいるのか?」  岳秋は、心配げに聞いた。 「……僕に彼女がいるかどうか、アキにとって、意味があるわけ?」  この話題になってから、春樹はずっと同じ場所を擦り続けている。岳秋は、思わず春樹を振り返った。春樹は拗ねたように少し唇を尖らせ、不機嫌そうに軽く眉をしかめ、岳秋から目を逸らした。 「そりゃ、あるよ。弟に初カノができたら、色々知恵も授けてやんなきゃって思うし、相手がどういう()かも気になるし。これでも、お前の姉さんみたいな美女と結婚してたんだぞ? たまには頼りにしろよ。彼女できたら教えろよな」  岳秋は、兄として完璧な回答をしたつもりだったが、春樹は不機嫌そうな表情で黙り込んだ。シャワーを岳秋の背中に掛けて石鹸を流すと「終わったよ」と言って、今度は自分を洗い始めた。  この日は、春樹が、岳秋と夏実の夫婦生活に踏み込み、微妙に気まずい空気になったが、翌日以降も二人で入浴する習慣は続いた。日を追うごとに、二人の雰囲気は打ち解け、食事中とはまた違う、寛いだ空気で会話が弾むようになった。春樹が入浴を嫌がることはなくなった。  しかし、まだ目の下の隈は改善しなかった。
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