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第7話 抑え切れない恋心、崩れ始める均衡【岳秋】
夏実と彼女のお腹にいた赤ちゃんが亡くなってから、二年が過ぎた。
遺された義兄弟、岳秋と春樹、二人の暮らしは、傍目には大きな波風もなく、過ぎていた。しかし、最も近しい家族を喪った二人の心に、何の苦痛や葛藤も無かったはずがない。
大抵のことは春樹と分かち合っていた岳秋だったが、春樹には言えない懊悩を幾つか抱えていた。
「あの日、自分が病院まで夏実を送っていれば」
「夏実が自分を愛したまま亡くなったのに、生き残った自分だけが、楽しみや喜びを享受して良いのだろうか。ましてや、この先、他の人を愛するなどということが、許されるのだろうか」
春樹は十七歳、高校二年生になった。県下でも指折りの進学校に入学し、優秀な成績を修めている。身長は百六十五センチまで伸びた。まだ伸びそうだったが、骨格が華奢で筋肉が付きづらい性質らしく、細身のままだ。そして、ますます亡き姉に似た美しい少年に成長した。
子どもの頃は、目鼻立ちに対して顔が小さすぎるきらいがあったが、今は細身の卵型の輪郭が完成に近づき、元々きれいだった目鼻立ちと調和している。
しかし、街を歩けば道行く人が振り返って見るほどの美少年なのに、学校や地域でアイドル的にチヤホヤされることはなかった。彼が纏う、容易に人を寄せ付けない空気のせいだろう。七歳で両親を、十五歳で姉を喪った苛烈な経験は、彼の人格形成に濃い影を落としていた。教室では、一人で窓の外をつまらなそうに眺めているか、静かに本を読んでいる。心から楽しそうな笑顔を見せることも殆どない。
岳秋には無邪気に甘えたり拗ねたり、茶目っ気を出してじゃれたり、大口を開けて笑ったりして見せるのに、外では能面のように無表情で不愛想な義弟を岳秋は心配した。しかし、彼の態度を窘めた岳秋を、春樹は軽くいなした。
「アキだって、外では大概ぶすっと怖そうな顔して、愛想悪いじゃん。それに、信用できるか分からない人にまで愛嬌振りまくほど、僕、心が広くないんだよ」
『それもそうか』とむしろ説得され、彼の態度を変えようとする努力は早々に諦めた。
岳秋と春樹の関係は、世間一般の義兄弟とは、かなり違っていた。寝床まで共にして――と言っても性的な意味ではなく、文字通り同じ部屋・同じ布団で眠るだけだったが――互いの温もりに慰められ、癒されてきたのだ。
美しく成長した春樹が時折見せる儚い表情には、毎日傍にいる岳秋ですら、ハッとさせられることがある。本人が意図しているかは分からなかったが、色気すら匂い立つようだ。春樹が子どもだった時は、抱き締めて同じ布団で一緒に寝るのも平気だった。しかし最近は、物言いたげな眼差しで見つめられ、身体を擦り寄せられると、胸がざわざわして落ち着かなかった。
しかし、岳秋は認めたくなかった。亡妻・夏実の弟である春樹に心惹かれていることを。それは夏実への裏切りのように思え、深い罪悪感を覚えた。
ある夜、岳秋は蠱惑的な夢を見た。自分の腕の中に春樹がいる。色っぽい表情と艶めかしい吐息に誘惑され、岳秋は彼のほっそりした身体を抱き締める。すべすべして柔らかな肌は赤ちゃんのようだ。彼の首筋に鼻先を擦り付け、肌の甘い匂いを胸一杯に吸い込む。華奢な骨格に、柔らかい筋肉が薄く乗っている彼の身体は、少年と大人の端境期ならではの未成熟な危うい魅力を放っている。背徳的な欲望だと、自覚はしている。しかし、『時分の花』のような、この時期だけの彼の美しさを愛おしみたいとも思う。しなやかな身体を巻き付けるように、彼も岳秋を抱き締め返す。恋しい人と抱き合っている時の、甘くて切ない感覚が胸を満たす。岳秋はときめいた。
「ああ……いい匂いだ」
その肌に掌を滑らせ、温もりや感触を楽しむ。しかし、胸の頂を指で摘まもうとすると、思わせぶりな流し目で春樹は岳秋の手を叩く。
「なぁ……、焦らさないでくれよ……」
なおも彼の胸を愛撫し続けると、彼は岳秋の身体を揺さぶって来た。
「アキ! アキ! ……もう、寝ぼけるのもいい加減にしなよ!」
次の瞬間、目覚めた岳秋が見たものは、困惑したように頬を赤らめる春樹の顔だった。同じ布団で眠っているうちに、エロティックな夢を見るのみならず、実際に彼の身体をまさぐっていたようだ。
「……姉さんと勘違いしたの? もう、やめてよ。こういうの」
少し怒ったような表情で、春樹は岳秋の胸を押し、プイッと背中を向けた。
「……ごめん。俺、欲求不満かな」
我ながら苦しい言い訳だと承知しつつ、岳秋は必死に弁解した。内心は愕然としていた。自分にとって、春樹が大切な存在だということは以前から認識していた。年齢は離れているが、今では一番心を通わせている相手と言っても過言ではない。しかし、義理の弟である彼を、精神的な意味のみならず、性的にも欲し、抱擁を夢にまで見てしまった。寝ぼけたとは言え、彼の身体を嬉々として抱き締めていたのだ。自分の邪な欲が限界まで来ている証拠だ。このままでは、もっと良からぬことをしてしまうのではないか。
他方では、春樹を組み敷き快感に喘がせている図を想像して滾る自分に気付き、岳秋は激しい自己嫌悪に陥った。
春樹と同じ布団で眠っているのが良くない。自分は性的欲求が強いほうではないと考えていた。三十代半ばの男盛りにもかかわらず、亡くなった夏実に貞操を守り続けていたが、ストイックすぎるのも、精神衛生的に良くなかったのかもしれない。
逞しい体格と男らしい顔立ちの岳秋は、女性から言い寄られることも多いが、真剣に交際している恋人以外とは寝ない主義だ。その貞操観念の高さは、男女関係に緩い人が多いマスコミ業界では珍しいタイプだと言われていた。
もやもやしたまま、岳秋は仕事に出た。地元タウン誌の編集部で、馴染みの女性編集者と打ち合わせをした。彼女が自分に好意を持っていることには以前から気付いていた。今日も声や目線に媚びが含まれている。
岳秋は、彼女を利用させてもらおうと考えた。義弟に対する不埒な夢が、単なる欲求不満から来るものなのか。それとも、精神的のみならず肉体的な繋がりをも深めたいと思っているのか。それを確かめたかった。
「この後、何か予定あるの? たまにはご飯でも行かない?」
打ち合わせが終わった後、岳秋は一瞬間をおいて思わせぶりにそう言うと、女性相手に情報を取りたいここ一番の場面でだけ出す、必殺技の色っぽい表情を繰り出す。
「……はい、空いてます。良いですよ」
眉をハの字に下げて目を潤ませ、彼女は素直に頷いた。
女性編集者と食事してラブホテルに行き、帰宅すると、居間でテレビを観ていた春樹が、岳秋を横目で一瞥した。
「……ただいま」
「お帰り。夕飯、外で誰かと食べたの?」
テレビに目線を向けたままだが、耳や神経は岳秋に向けられている。
「うん。久しぶりの編集者さんと打ち合わせだったんだ。盛り上がってさ」
岳秋が何気ない態度を装い、冷蔵庫から麦茶を出そうとすると、春樹が背後を通った。
「アキ、キスマーク付いてる」
ぼそっと呟かれ、岳秋は慌てて襟元を押さえた。その狼狽ぶりを見て、春樹は唇の片端だけを無理やり上げただけの苦笑を浮かべた。
「嘘だよ。態度がソワソワして変だし、女物の香水の匂いするから、カマかけただけ。でも、図星みたいだね。キスマーク付きそうなこと、してきたんだ?」
恋人に浮気の証拠を見つけられたような、バツの悪さを感じた。
「……いや、そういうんじゃないんだ。盛り上がって、たまたまっていうか。お互い大人だし、深い意味はなくて、」
冷や汗をかきながら苦しい言い訳を連ねる岳秋を、春樹は軽蔑したように眺めた。
「ふーん。アキは、深い意味がなくても、できるんだ」
「や、だから! いつもは深い意味でしか、しないよ! 今日はそういうのとは違う、って言っただけで」
岳秋は必死に言い募った。
「別に、僕に言い訳しなくたって良いじゃん。僕、アキの恋人じゃないし。アキが誰と何しようと、何か言える立場じゃないからさぁ」
言葉とは裏腹に、春樹は奥歯を噛み締め、怒りを押し殺した表情だった。
「今朝のことも、そんなに姉さんが恋しいのかって、アキを可哀想に思ったけど。誰でも良かったんだね。外で誰とエッチしてもアキの勝手だけど、匂いなんて家に持ち帰らないで。生々しくて気持ち悪い。今日も、ちゃんとお風呂入ってね。でなきゃ、僕、アキと同じ部屋では寝ないから」
最後に捨て台詞を投げつけ、クルリと踵を返して春樹は自分の部屋に向かった。ぐうの音も出ず、すごすごと岳秋はお風呂に入った。念入りに身体を洗い、変な跡が付いていないか確認した。
岳秋の心は千々に乱れた。春樹への恋心は、決して打ち明けるべきではない。彼はまだ十七歳で、亡き妻の弟だ。自分は彼の保護者だ。人の道にもとる。
それなのに、夢にまで見るほど、切実に彼を求めているなんて。
背徳的な欲望をごまかそうとして他の女性を抱いたが、いかに自分が春樹を求めているかを改めて思い知らされるだけだった。
しかも、帰宅するや否や、当の春樹に見抜かれ、軽蔑されたのも情けなかった。『気持ち悪い』という彼の言葉も、刃のように岳秋を傷付けた。彼への恋心すら否定されたような気がした。元々出口のない恋だ。苦しくて当たり前だ。何度も自分にそう言い聞かせたが、切なさで息が詰まりそうだ。
お風呂からあがり、恐る恐る春樹の部屋を覗くと、既に電気を消して彼自身の布団に横たわっている。こちらに背中を向けていた。
「ハル……。お風呂入ってきた。嫌な気分にさせてごめん」
その背中に話し掛けたが、春樹は無言のまま身じろぎ一つしない。岳秋は朝より更に重くなった気分で、自分自身の布団に入った。
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