ふしあわせ

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ふしあわせ

あるところに、ふしあわせなおじさんがいました。 おじさんは仕事がなくて、おなかがすいて、家から出ることもなく、水ばかり飲んでいました。 ある日、おじさんを心配した人が、食べ物を持って来てくれました。 おじさんは何度も何度もお礼を言って、大切に大切に食べました。 食べ物がなくなったころ、水道から水が出なくなりました。 おじさんは水が飲めずに、すぐに死んでしまいました。 奈々は思った。 バカな大人。外に出たら公園で水が飲めるし、食べ物なんか万引きすればいい。 テレビの番組で死んだおじさんの話を見た先生が感激して、クラスのみんなに見せた。 みんなはかわいそうだと言って泣いた。 助けてくれる人が現れたときに、もっと強く助けてって言えば、なにかしてもらえたかも。 なにかしてもらえたかも。 そう言うみんなは奈々にいろいろなことをしてくれる。 運動靴を隠してくれる。 机に落書きしてくれる。 髪に泥を塗ってくれる。 くさいと言ってくれる。 産まれてきてかわいそう。あなたが私の子どもだったら川に捨ててた。あなたの親はやさしいね。 奈々の身体中にある痣を知っている子達は親切に、奈々の服を脱がせて痣がある場所を教えてくれる。 あるところに、ふしあわせな奈々がいました。 おなかがすいて、水が止まった家に住んで、みんなからいろいろなことをされました。 だけど奈々は家から外に出ることができません。 どこにも行く場所がありません。 おなかがすいても、水がのめなくても、一人ぼっちでも、奈々には行く場所がありません。 バカな私。今なら天国に行けるだろうに。 家から出て、体から出て、空にのぼって。 だけどまだ、奈々には公園の水があります。学校にくれば給食があります。 だからまだ、出ていくことができません。 あるところに、ふしあわせな女がいました。 ふしあわせな子どもだった昔から、ずっとふしあわせなままでした。 けれど、隣には愛した男がいます。優しく、頼りがいがあり、女を愛していた男。 今はすっかり変わり果て、さんざんに女をなぶる男になり、すやすやと眠っています。 ふしあわせな女は、なぜ自分はふしあわせなのかと考えました。 そして、幼い頃に見た、ふしあわせなおじさんの話を思い出しました。 なんてバカな大人。そう思ったことを思い出しました。家から出ればいいのにと思ったことを思い出しました。 でも、同じなのだと女は知ってしまいました。 家の中も外も大人も子どもも、みんな地獄にいるのだと。 ここは地獄。 いるのは亡者と鬼ばかり。それじゃ、しあわせになんかなれるわけない。 私は亡者。責め苛まれるもの。 だけど、せめてもの救いは自分が鬼ではないことだ。 あのふしあわせなおじさんも、鬼の手にかからないために、家にこもっていたんだ。 奈々は隣で眠る鬼を見た。とてもとても醜い鬼だ。 この地獄には鬼から救ってくれる神も仏もいないのだ。 ならば、自分が鬼退治をしようか? それはとても良い考えに思えた。 鬼を弑するものは神なのではないだろうか。 神になろうと包丁を振り上げた奈々は、視線を感じた気がして顔を上げた。 目の前のガラス戸に自分の顔が映っている。包丁を取り落とした。 自分の頭を抱えて後ずさる。 知らぬ間に大きな叫び声を上げていた。 男が起きて驚いて奈々を見ている。 「おい、どうしたんだよ、なにがあった?」 奈々は差し出された手を打ち払って、家の外に駆け出した。 昔々、ふしあわせなおじさんの話を聞きました。 おじさんは本当にふしあわせだったのだろうか。 自分が鬼だと知ることなく死んだおじさんは。亡者のまま、亡者として死んだおじさんは。 考えても、もうわからない。奈々には鬼の考えることしかわからない。奈々は自分が鬼だと知ってしまった。 あるところに、ふしあわせな鬼がいました。 亡者の家から出てしまった鬼は泣き叫ぶことしか出来ませんでした。
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